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8月23日 17日目

近所のおじさん連が早朝掃除にくる。結構なことだ。彼らの話では、数日前同じ場所に中年の旅人が泊まっていたという。皆よく見つけるなと感心されてしまった。

市街地に入り、車は多くなり交差点も多くなって走りにくくなった。
豊田は不思議な町だ。町全体の施設が私企業のものなのか公共のものなのかわからない。豊田市立とトヨタの建物が入り乱れる。
本社前なのか、スーツをまとった人の海が信号を渡ってくる。

やがてあたりは三河ののどかさに包まれてくる。
道の雰囲気は県境よりも旧国名で考えたほうがわかりやすい。岐阜でも飛騨地方と美濃地方ではまったく違うし、愛知でも尾張と三河は別の場所だ。

この日は、太平洋を目指してひたすら走った。平野と思っていたがいくつかの起伏があり、結構油断できない。

岡崎、豊川、豊橋と進み、夕方、やっと太平洋に出る。富山から3日、感慨深い瞬間だ。 そして浜名湖の河口近くの公園をこの日の野営地とした。湖岸の夜景はきれいだったものの、一晩中蚊の猛攻に悩まされ、ほとんど眠れなかった。
走行距離:110.1km (合計1375.5km)
使用金額:\2,539 (合計\46,168)

8月24日 18日目

日本海では久比岐自転車道というのがあったが、太平洋にも太平洋自転車道というのがある。この日はただひたすらそこを走った。雄大な太平洋を眺めながらのサイクリングだ。 海岸線にはサーファーや釣り人でさえほとんどいない。ただ海が飽きもせずにそこにある。

永遠に海ぞいの道があるわけではなく、とぎれとぎれに内陸の道も走る。 農道の周りは田畑に囲まれている。人の姿は少ないが、生活の気配は感じられる。 北陸道に比べのんびりとした空気で、たとえるならば「おばあちゃんのひなたぼっこ」といったかんじか。

自転車を漕いでいると不思議な感覚に襲われることがある。 前に進んでる感覚がまったくなくなり、浮いているような、或いは暖かい液体の中で泳いでいるような感覚だ。足はかってにまわり疲れはほとんどなくなる。
その液体の中でじたばたしていると周りの景色が勝手に流れていく。 頭はほとんど眠っている。

もう暗くなりかけた、誰もいない御前崎までの道で、このような状態になった。
平坦な道での一定のスピード、 等間隔で明滅する対抗車のヘッドランプなどが脳のどこかにあるスイッチに働きかけるのだろう。

走行距離:91.3km (合計1466.8km)
使用金額:\2,991 (合計\48,759)

8月25日 19日目

朝は釣りの時間だ。広い港の澄んだ海にこませをまくと、魚が集まってくる。
が、釣れない。なんであんなに群がっているのに釣れないんだ。
ようやく釣れた一尾はアイゴ。見物にきたおじさんの話では毒のある魚だという。 食べられないこともないらしい。釣った魚はキャッチアンドイートが原則だ。 日が高くなり、釣りをあきらめて広い御前崎港をあとにする。

「海キラリ、君輝いて」の静波海岸。(キャッチフレーズのようだ)
冬に家族旅行できたことがあるが、夏は海水浴客でにぎわう。
世の中には色々な人が入るもので、海水浴場にてひとり魚の煮物を作る青年もいる。我ながらおかしなことをするもんだ。
アイゴの毒はひれの所にあり、刺されると大変いたむらしいが、身は食べられるという。できた煮物はとても磯臭く、全然おいしくなかった。はらわたの取り方がまずかったか。

昼過ぎに海水浴場を後にして太平洋岸をいく。背後に南アルプスを抱える平野は、前日に渡った天竜川、この日の大井川、安倍川、翌日の富士川と、社会で習うような大河によって区切られている。 ランドマークとして丁度いい。

海ぞいの道をずーっと走り、高名な三保の松原についたころにはもうまっくらだった。富士の高嶺は雲に隠され、あたりの景観も闇に覆われていたが、月が海上に作る光の道は記憶に残っている。(写真では失敗した)

清水といえば、僕の中では次郎長ではなくさくらももこでもなく、サッカーの町だ。市街中心部へ向かう途中、迷い込んだ路地の奥でそのような光景を目にした。 ナイターで照らされた校庭で女子サッカーをやっている。小学校高学年くらいに見えるが、そこらへんの中学生よりずっとレベルが高い。 しばらくの間足を止めさせられた。

この旅も終わりに近づいている。
それほど倹約したつもりはないが、あまりお金は使っていない。 たまにはおいしいものも食べるのもよいだろう。
当初のもくろみでは、釣ったアジのさしみで楽しむ予定だったが、一度しか味わえなかった。そしておそらくここが最後の漁港になる。ぜひとも魚料理を食べなければ。清水駅前で見つけた寿司屋さん。お魚もおいしかったが、心に残っているはジャガイモにチーズをのせて焼いたものと、おかみさんの優しさだ。 僕が自転車で旅行していることを聞くと、色々世話を焼いて頂き、ペットボトルに入れてお茶をくれた。

今日の寝床は幹線道路側の公園。それほど良くはないが、それほど悪くもなかった。

走行距離:86.2km  (合計1553.0km)
使用金額:\2,150? (合計\50,909)

8月26日 20日目

山が迫ってきている。清水と富士市の間は海と山の間隔が狭く、東海道新幹線、東名高速、国道1号、旧東海道と日本の大動脈が一見できる。

源頼朝、徳川家康、由比正雪、弥二さん喜多さんもここを通ってきたのだろう。そして今日も日本の流通はここを通っている。ここが攻撃されたらやばそうだ。

蒲原。
「ホリイのずんずん調査」で最も東海道らしい町の称号を得ていたが、僕も同じ印象を受けた。観光案内の表札を見ていると、死んだ弟だか息子だかに似ているということで、老女にありがたがられてしまった。

富士川のほとりでは、朝ご飯としてヨーグルトを食べていたことを新幹線に乗るたびに思い出す。
富士山はまったく見えない。こんなに近くにいて、24時間一度も見えない。


これは富士ではなくて愛鷹山の裾野

沼津に近づくと、田畑と工場の割合が逆転してくる。
そして市街地についたのはお昼ごろだ。沼津には高校時代、遠征試合にきたことがある。時折見覚えのある道に出る。 お昼の休憩に利用した公園は試合会場として使った所だ。こんなところに再訪することがあるとは思わなかった。 その時に宿泊したホテルの目の前も通った。沼津/インターグランドホテルではなく、沼津インター/グランドホテルと切るのではないかとこのとき気付いた。

ここからは御殿場を目指す。渋谷まで続く246号だ。箱根八里を越えるよりは楽だろう。 山間部の静かな所ではあるが、御殿場までまったく人の住処に切れ目がない。
御殿場で日がくれた。スーパーで夕ご飯を買う。

しかしこの後がかなり大変だった。もうそろそろ休もうと思っているうちに、足柄の山奥に突っ込んでしまった。246号は東名と並行した、ほとんど高速道路のような道だ。大型車が轟音をあげている。このような道は歩行者に対する配慮がまったくない。バッグがトンネルの壁をこする。あぁ恐い。
山間に照らされた異様な無機質の構造物はおそらく東名だろう。

道が下りになりあたりが開けてきたころ、やっと次の町、松田だ。あぁ死ななくて良かった。
眠る場所を物色していると公園を見つけた。若い二人が花火をしている。

どこか良い所はありませんかと聞いてみると、まぁ一緒に花火でも、となって酒宴が始まった。
二人はここらへんの高校生で、天真爛漫な女の子とそれを心配そうに眺める男の子だ。線香花火をしながら、いろんな話をした。
この旅を通じて、僕の話し相手はなぜかほとんどおじさん、おばさんだった。 彼らのような若者たちと、長時間話ができたことはとても嬉しかった。

彼らに小学校を案内してもらい、眠った。

走行距離:123.3km (合計1676.3km)
使用金額:\3,093 (合計\52,585)

8月27日 21日目

最終日。簡単にいえばそのまま帰っただけだ。

246号は丹沢山地が相模平野に溶け込んでいる境界の所を走っている。その最後の裾野がつくる起伏を一つ一つ越えて、環八を目指す。
大和市のあたりのマックでお昼ご飯。
環八に出て、砧公園で最後の休憩。

家に着いたのはまだ明るいうちだったと思う。最後まで行きに使った道を引き返すことはなかった。
部屋に戻ってきたとき時の印象は、安心感というよりも違和感だ。 旅館にでも泊まったかのような感じで、こういうところに住んでいたのか、今日は寝る場所を探さなくてもいいんだ、と思った。

そのような印象はすぐに消えていき、いつもの日常へ復帰していく。しかし旅で起こった様々なことは、3年たった現在でもこのように記述できているように、道々の風景は脳裏に残っている。

走行距離:98.4km (合計1774.7km)
使用金額:\1,216 (合計\53,801)



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