この日は起承転結で言えば『転』という事になるだろう。 大体自転車旅行の場合、かなり大まかな計画しか立てず、 予定の変更を前提としながら旅をしていくが、この日は旅の計画を根本的に見直さなければならない事態に直面した。
野宿の場合、夜が明けてくると目を覚ます事が多い。 大磯から太平洋自転車道というのがのびている。R134沿いの大変走りやすいところである。 そして国道一号に出る。今日は峠越えがある。それに備えてギアを整備しながら進む。順調に小田原へ到着。ガスカートリッジを買おうと思い、店の開く時間まで城跡公園で休むことにした。 桜はまさに散りぎわで、花びらは堀を埋めていた。 ↑北条氏の最終兵器 そしてカートリッジを探す。意外と見つからない。11時ごろまで探したが、結局見つからず、真鶴方面へ向かうことにした。 海岸ぞいのとても気持ちがよい道を走っていると、やがて真鶴道路に出る。自転車は20円の有料道路だ。このあたりはミカンの産地らしく、ミカンや魚の干物の露店が目立つ。 湯河原のショッピングモールでカートリッジを見つけたとき、そのことに気付いた。 寝袋がない!嗚呼、自転車旅行においてこれ以上のピンチがあるだろうか。落し物は気付いた時点ですぐに取りにいくのが鉄則である。しかし今回はどこで落としたのかが特定できない。大磯〜湯河原間のどこかである。 だが、寝袋なしに今回の目的である達磨山で星を見ることはできない。あせりにあせって道を引き返した。 寝袋はどこだ。それのみを考え真鶴まで戻るが見つからず、絶望する。ここでなかばパニックに陥っている自分に気付き、気持ちを落ち着かせるために休憩する。
@とりあえず小田原までは探しにいこう。 道を引き返すのはつらい。まず精神的につらい。しかもどこまで引き返すのかわからない。さらにもう一度この道を戻ってこなくてはならない。 あったぞとおもったら捨てられた古タイヤだったり黒猫の死骸だったりして精神的にもますますつらくなる。依然見つからぬまま小田原まで戻る。よくこんな距離を休憩なしできたもんだ。小田原でも朝行った場所をくまなく探る。いくつかの有力候補があったが見つからない。午前中よりも人通りが増えて、世間はにぎやかな休日である。
湯河原まで戻り、気持ちを切り替えることにした。まぁ高かったけどなくしてしまったものはしょうがない。季節はいいし天気はいいし景色はいいし頑張っていくか。 伊豆山を越えて熱海に入る。でもこういう社員旅行で行くような場所で泊まるのはそぐわないのでもう少し先まで行こう。 そして網代についたのは6時半ごろだった。堤防で釣りはできるだろうか。魚屋の連なりががすごく良い雰囲気だ。ともあれ寝床を確保するのが先決だ。 すいませーんと10回ほど呼ぶとくしゃくしゃの顔をしたばあちゃんが出てきた。素泊り4200円。払ってもいい値段だがこんな老人の民宿では本当に寝床を借りるだけだろう。テントはあるんだし新聞紙にでもくるまれば一晩くらいあかせる。天気は良いし日の出が見られるかもしれない。と、この日も野宿することにした。 この分のお金は温泉と食事に使うことにした。疲労と空腹は限界にきている。いくつか旅館をまわり、国道ぞいの『平鶴』というところで入浴する。伊豆にドライブへ行く人はこの名前を覚えていたほうが良い。ここの露天風呂は格別だ。眼の前は大海原で、足もとまで波がうち寄せる。朝日が昇るころはすごいんじゃないだろうか。居合わせたおじさんの話では眼の前の岩場が源泉で、そのためかお湯は塩味だ。 続いて食事。国道と駅の間にある小料理屋に入る。魚屋直営の料理屋で、旦那が魚屋で、奥さんが料理屋にいるようだ。湯上がりのビールを呑みほし、「特々刺し身定食」を注文すると刺し身は主人が店外から持ってきた。 伊豆は魚がおいしい。そしてこういう小さな店で食べるのは楽しい。客は僕のみで、宿がないこともあって長居をした。 遠洋船の入ってきたころはそりゃもう賑やかでしたよ。最近は魚も漁師も少なくなりました。もうあんな時代はこないんじゃないでしょうかねぇ。 うちのお父さんはテレビなんかいやがってましたけどね、○○さんがきたときはそこに座って、見栄春君がきたときはそこでそのきんめだいををだしましたよ。 若いころは裏のばあさんにいじめられましたけどね、いまじゃばぁさんは老人ホームに入れられてたまに遊びに行くと感謝されますよ。 などと話を聞いているうちに深夜0時。店を出て防波堤の端にて床につく。 2001年4月21日 記 |
本日の走行距離 | 128.33km |
使用金額 | 食費 \4467 入浴 \1000 交通費 \60 他 \1652 |