熱もなく、悪寒や倦怠感もなく、頭痛も関節痛もない。食欲もいつもどおり旺盛だし、思考力もそれほど落ちない。
ただ咳だけが異常に長く、腹筋が筋肉痛になるほど続いた症状が、ようやく沈静化の兆しを見せてきた。年明け早々からだったから、2週間近く続いたことになる。何だかパッとしない出だしだなぁ。
こんな症状ははじめてだったが、まぁ風邪の一種なのだろう。自転車もこげるし普通に生活は出来たが、特に眠るころにひどくなって疲れがとれにくいのと、話をしづらいのは閉口だった。
そんな状態だし、今日は多分今シーズンはじめての南岸性低気圧通過。連日晴天の関東平野の冬を濡らすパターンだ。気温は高いらしいので、丹沢あたりの山では雪になっていないかもしれない。
一日中読書。熱中して読むというより、あっちゃこっちゃ拾い読みしては昼寝する。こんな日は料理もおざなり。
友人のライブを聴きに、青山界隈へ行く。この街には僕には理解できない、何を売っているんだか分からないお店が多いように思う。
ライブのお店はカフェとライブハウスとバーがあわさったような、落ち着いたところだったのが良かった。
焼肉用カルビだが、炒めるよりも茹でたほうがおいしかった。
一度茹でたのを水で冷やす。どのくらい効果があるか分からんが、アクを流して身が締まる気がする。
それをもう一回ゆがいて、ショウガとねぎとごまドレッシングかけた。さっぱりして臭みがなくなる。
歓迎会とか日記を書いているPDAの電池がなかったとかで、ちょっと更新が切れた。
これはある意味チャンスかもしれない。毎日の更新を習慣づけると、それぞれの更新の負担は軽くなる。しかし今後もずっと毎日欠かさず更新していくとなると、今度は書かないことが負担になってくる。10年後も毎日更新するのも不可能ではない気もするが、それも何だかちょっと怖い。
「今日のごはん 野菜炒め あまりうまくいかなかった」なんて言う日記を書くのは大して負担でもないが、書いていて特に面白くもないし、読んでいても同じだろう。平凡な日常の記録は昨年の1年間でOKということにして、書きたいことだけ書いていくほうが良いかもしれない。
ネクタイっていうのは一体どこの風俗で、どんなことから始めて、いつごろからやっているものなのかね。
首に紐を巻きつけるのは、何だか奇妙だ。酔っぱらっておでこにはちまきにするのも妙ではあるが、首に巻きつけるのも実用的な利点がまったく感じられない。虜囚のようである。ネクタイの習慣が定着した今でならば装飾的な意味が論じられることが出来るかもしれないが、本当にあれをつけていると格好良く見えるのだろうか。
さらに奇妙だと感じられるのは、世の中の人が何の疑問も持たずに、当然のような顔をしてネクタイをつけていることだ。 まぁこうなってしまってはしかたがない。毎回毎回他人に対して、僕はネクタイの存在に疑問を感じているので付けませんと説明するのも面倒である。年に数回くらいはつけることもある。
最近妙に母親がいろんなことを心配してくると思ったら、そういう病気らしい。
日頃から焼いて欲しくない世話を焼いてくるというのが僕にとっての不満だったが、その余計なお世話が3倍くらいになっている。毎回自炊するのも、毎週山へ行くのも僕の勝手だし、暖房付けないのも洋服買わないのも僕が好きでやっていることである。他人の生き方にとやかく言わんでもらいたい。
普段と同じつもりで接するとこちらとしても不満が溜まるが、病気だということで接してみると、意外と面白い。いろんなところから心配の種を見つけてくる。思ったよりも想像力がある。ちょっとくらい肉まんが暖まってなくてもどーでも良いと思うのだが、それだけでも大ごとらしい。うどんの味付けとか息子の服装とかを心配するならば、教育水準や文化の低下とか、アメリカナイズされていく世界と独善的な政府とか、蔓延する拝金主義とか、公共事業にむしばまれる日本の自然とか、そのあたりを心配してくれたほうがこちらは助かるのだが。
多分人間の頭の中では常時「これは大丈夫だろうか」と心配する部分と、「ま平気だろ」とか「対策は出来た」とか判断する部分があるのだと思う。彼女の場合は「平気だろ」と判断する機能が衰えているようで、対策の必要がないほどの些細なもの、起こる可能性が極めて低いものなんかを見つけてはどうしよう、どうしようと言っている。どうしたいつもりなのだか知らないが、そう思ってしまうのならばしかたがない。人間の脳味噌は不思議なものだ。
脳の働きについて、立花隆による記事がちょうど雑誌に載っていた。やっぱり人間の脳味噌は従来に考えられていた以上に機械的で、うつ病患者の脳味噌に電極をさすことによって劇的に症状が回復されることがあるという。(NHKスペシャルで放映されたらしいので、見た人も多いのでは)人間のこころ、気持ちといっても化学物質や電気パルスで簡単に変えられる。
自分の脳味噌に電極刺すと言われれば嫌だが、これは故障した機械を修理すると考えればあっさり納得できる。電気回路にノイズが乗りやすくなったから身体に故障が出てるので、外部から電圧かけてそのノイズをとる。結果、誤作動がなくなる。10年後の精神科医は、カウンセラーというよりは電気回路の設計者になっているかもしれない。
立花隆によると、時代は人間+道具というものから人間+道具+そのハイブリッドというものへ移りゆくという。確かにこの流れをすすめていくと、脳と道具を直接つなげられるようになる。想像もしなかったような便利なことが色々と実現できる。
視力が落ちてもズーム付き、高感度のレンズを付けて、赤外光まで見えるようになるし、未来の車にはハンドルもアクセルもなく、ヘッドマウントをつけるだけですんでしまう。記憶力がなくて困るわと嘆く人は、脳味噌とグーグルを直結させているかもしれない。どんなに落ち込んでもボタン押すだけで幸せにもなれる。
気味悪いが、間違えなく有用であるし、実現可能である。人類にとって、良いことにも悪いことにも使える。コンタクトレンズや差し歯、擬手や擬足は違和感なく使われているので、その延長上の形で実現されれば気味の悪さも少なくなる。最初は抵抗あるだろうが、一度使ってみればものすごい便利に思え、何の後ろめたさも感じなくなるかもしれない。(何の後ろめたさも感じなくするように脳を操作すれば良いのだから)
有益で実現可能なものは、あっという間に実現されるだろう。タイムマシンの作り方はまだ誰もわからないので実用化できないが、原子爆弾は理論が完成した途端に作られ、使われた。商売になるものは携帯電話のように急速に普及し得る。人間と機械を直結させるのは、実に様々な商売に有益だし、ある用途ではもう行われているらしい。
どの程度まで利用するかは、医者や技術者、法律家たちのモラルによるのだろうが、彼らのモラルだって電極さして操作できる。何者かが操作し得る。何者っていうのが特定の人物なのか、本人なのか、人類全体の意思なのかは分からないが。