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2008/1/15(火)

3日間の写真展に続き、片付けも無事終了。

たくさんの方々に来ていただき、もう感謝、感激。言葉になりません。
あらゆる意味において、成功だったと感じてます。
具体的に書きたいことがたくさんあるけど、まずはありがとうございましたということを、ひとまず。


皆さんの目から

■ベルガモ館長つれづれ日記

■音骨ファイル

■鳥蝶ビデスコ


今回の葬儀の実行委員長にして僕の百年の知己。彼の功績に対しては何を以って報いても十分とは言えないが、とりあえず腹減ったし、久しぶりに一緒に飯食おうということでおごらせてもらう。

彼の恋人のリクエストは、Outbackという多分アメリカかオーストラリアのステーキハウス。店内に西洋人も多く、それこそアリススプリングスあたりで陽気なオージーたちがビール片手に大笑いしている雰囲気だ。オーストラリアの写真もけっこう出した今回の写真展の打ち上げとしてふさわしい。

オートレースのマニアックな世界についての話を聞いた。

というわけで、具体的にたくさんの書きたいことを。
おおむね時系列順に振り返ってみようか。

2008/1/11 前日の会場準備

今回の展示物のプロジェクタ関係、立体写真および動画がひとまず形になったのは、前日の深夜だったと思う。写真とともに展示する文章も、あまり推敲していないし、並び順だって考えなきゃって状態のまま、とりあえず印刷。
一応なんとか、料理は全部そろったっていうのが会場入りしたときの状態。

しかし実際お客様呼んでおもてなしするには、料理があるだけじゃ全然足りていない。箸もコップも必要だし、飲み物も必要。テーブルきれいに整えて、席を設けて、っていう作業をやらなければ。
たとえ料理の出来が最高だとしても、フライパンから直接食べさせるような状態では、パーティーとしては最悪だろう。 作品のもっている力を、最大限にみせるには、また別の技術も努力も時間も必要だ。
が、その計画も能力も人手も不足している。配置の順番も考えられてなかったし、立体写真なんて実際には原理確認しかできていない。もう1日くらいは調整と工作が必要で、人様にお見せできるような状態ではない。
会場で準備を始めた金曜昼は、そんな状況。かなり厳しいことは分かっていたが、しかし不安はまったく感じていなかった。

勝負どころで、手札にジョーカーが入っているような頼もしさ。
「お前の葬式の実行委員長は俺がやる」と、幼馴染が申し出ていてくれている。

彼とは母の葬式直後以来、1年半ほど会っていないし、その前も数年間会わなかったりする。が、彼は僕の人生において大事な場面には、必ず現れる。そういうことになっている。彼が来るくらいだから、今回の写真展はそれなりに重要だって判断できる。あるいは彼と会うこと自体、割と重要なイベントだ。

彼はいつものようにだいぶ遅刻してやってきて、いつものように、いきなりフル回転を始める。
「相変わらずお前は雑だなぁ」とか何とか言いながら、すぐさま現状を確認し、テキパキと指示を出す。何だかあまりに想像どおりの彼なので、僕は色々小言を言われながらも、もう可笑しくておかしくて仕方がない。

普通、自分のアイデアやイメージを他人に伝えるには、莫大な労力と工夫が必要だ。しかも多くの場合、最大の苦労を重ねた結果、なんとか最低限伝えたいことを伝えられる、という程度に終わる。
しかし今は、何の努力もしていないのにすべてが最初からきちんと伝わっている。だけでなくさらに、そのイメージが目指すべき先について、僕の曖昧な考えをより明確にして、どんどん具現化してくる。

彼と一緒に居る時間はいつも濃厚なものだが、今回もすごい仕事を見せてもらった。彼のセンスと経験を生かしつつも、作り上げられていくのは確かに100%僕の世界の作品だ。僕には苦手なこと、雑なところがあっという間に修正されている。僕には到達できない完成度まで引き上げてくれる。やっぱりこいつは僕のこと大好きなんだなぁということが伝わってくる。


閉店間際、なんとか形になる。完成してないけど。

確かに僕の手札には切り札があったのだ。考えられる理想よりもさらに上のフィニッシャーがいてくれた。これは彼の能力なわけだが、その力を存分に借りられるのは、はっきりと僕の力でもあると思う。誇らしいと思う。
いやぁ、この準備の段階だけで、もう今回の写真展をやった甲斐があったと感じられる。

僕の同居人も、非常に勤勉に黙々と働いてくれた。彼がいろいろ細かいところまで気を使ってくれたから、それぞれの力を発揮することができた。彼の働きが無くても、やっぱり今回の写真展は成功に持っていけなかっただろう。大いに感謝している。最小の人数で最大の働きができたと思う。

2008/1/12 初日

僕もたぶん、ほとんどの表現者と同じように、二つの背反する気持ちを、何の矛盾ももたずに同居させている。
自分と自分の作品に対する圧倒的な自信は、確実にある。それと同時に、僕の作品なんて他人には何の価値も無いだろうとも思っている。

場所や規模として、今回の写真展はそういうことをやって生計を立てている人と、同じステージにたってやっていたと思うが、そういう人たちの作品に比べて、特に引け目を感じる必要もない程度には思ってる。世の中で僕の作品以外にはあまり見たことも無いようなものもいくつかあるし、僕は被写体である自然界の様々を、この上なく美しいものだと思っている。人に見せたって喜ばれてもおかしくない。

反面、僕の写真なんて他人には何の価値もないってことも容易に信じられる。
別に人に認められて、頼まれてやってるわけじゃない。こちらから酔狂で開いて、他人に見てもらってるわけだ。 そんな自慢めいたことを人に強要するのもいかがなものか。見せられたくもない写真をわざわざ見せつけられても、迷惑な話だ。こういっちゃ何だが、僕は他人の写真展見に行っても、ノートに感想書いていこうなんてほとんど思わないし、無理矢理感想求められたって、無難に何か技術的なこと聞いてお茶をにごすくらいだ。わざわざ見せられたくはない。

それに、僕の視点で作品を眺めても、感じるのは感動ではない。僕にとってはすでにそれらの作品はあたりまえになっているので、「あ、ここ失敗だったなぁ」とか、アラが目につくほうが多い。他人がその作品見ているときも、「いや本当はもっとこうするはずだったんです」と弁解したくなることも多い。

だから、他の人に喜んでもらえるということが分かるのは非常に嬉しい。
喜んでいる、っていうのは本当によく分かった。これは面白い体験だ。

サテ立体映像はちゃんと分かってもらってるだろうかなどと思いながら説明していると、相手の目が輝いている。明らかに、義理でテキトーに相づちうっている態度ではない。感動しているようだ。
あかの他人に感動を与えることができるとは。これは大変に嬉しいことで、こちらも何だか感動してしまう。 けっこう知らない人も感想書いていってくれた。これは自信にもなるし、やった甲斐も感じられる。

僕にとって未知の人が足を運んでくれて、写真展で時間を費やしてくれるのも非常に嬉しいことだが、知っている人が来てくれるのも非常に嬉しかった。この人はそう気軽に見に来れないと思うのだけど、わざわざ足を運んできてくれた人。そんな人もけっこう来てくれた。皆が結構だらだらと長居して、作品もじっくり見ていってくれたことも嬉しかった。

今回の写真展は、わりと準備にも時間かけて手間もかけた。しかしその手間程度以上に報われたと思っている。

2008/1/13 二日目

前回、会社の友人たちと写真展をやったのは約4年前。
始めて小笠原に行ったとき、自転車旅行記を出版したときと時期的にだいたい重なる。

今日は初めて小笠原に行ったときに知り合った方が来てくれた。
彼の話だと、僕は当時と雰囲気が変わったという。同時期に知り合った複数の人から、似たようなことをいわれたことがあるが、当時はもっと社交的でないというか、もっと完全に自分の世界の人で、仙人のようで、他人とは関わりをもとうとしていなかったらしい。

今がどの程度社会性が身に付いたかは分からないが、確かに自分でもそう思う。当時はもっとずっと一人で生きていくのだと思っていたし、旅先で友達ができるなんてあまり信じていなかった。
前の写真展なんか、グループ展であるのを良いことに、僕は本当に親しい友人の3,4人に対してしか宣伝してないし、学生のときはほとんどの旅行は一人旅だった。少なくても今よりだいぶ社交的ではなかったよな。

先日、久しぶりに自転車旅行記を読み返してみた。写真の選び方なんて今よりも拙いが、もうこの文章は書けないな、と思う。今よりもさらにストイックな感じがする。自分で言うのも何だが、当時にしかかけなかった面白さにあふれている。
僕は昔の知り合いからいつも、「変わっていないねぇ」といわれる事ばかりで、自分自身でもそう思う。が、やっぱり時間はちゃんと過ぎているようだ。変わっている部分だってあるわけだ。HPに書いている文章も、古いものはもう10年前のものだ。そういう楽しみ方もできるようになってきた。
これからだって変わっていくのだろう。今書いている内容だって、たぶん今じゃないと作れない。

2008/1/14 三日目

以前の日記で「僕は死んだ」と書いたのは半分戯れだが、実際やってみると本当に葬式のようでおかしかった。いろんな時点での僕の知り会いがランダムにやってきて、これから知り合いになるかもしれない通りがかりの人もやってきて、しばらくテキトーにくつろいで、いくらかお話をして、また去っていく。

なんだか、理想的な葬式のありかたが見えてくる。
死んでから集まってもらっても嬉しくないから、こんな感じにしたいね。死期を感じたら。

ローマ共和国の人たちは、老いてもう十分生きたと感じたら、食を細くして自死を選んでいったらしい。
僕もそんなふうに、自分の死を恐れずに受け入れていたいが、そのときに「僕の人生こんなことやったぜ」と発表できる場を作って、知り会いや通りがかりの人集めて、僕の自慢話を楽しんでもらっていければ最高だ。

いや死の直後ギリギリまで何かに対して努力していたいとも思うから、うちの婆ちゃんのように「人生は素晴らしいので、もっと長生きしたいです」って言える境地も素晴らしいと思うが。


祖母、姉と

でも今回の写真展は、とりあえず葬式じゃない。近々に、突然の事故死でもしたらあれを葬式がわりにすれば良いが、そうなる確率はそんなには高くないだろう。
なんか、自分の立ち位置を確認できたような気がする。けっこういろんな人に気をかけてもらえてるんだなぁということとかも。


久しぶりに台所に立つ。なんか台所の色々なものが軌道から外れている感じだ。修正していかないと。


何点か細かい反省点を振り返ってみる。

●3日間という開催期間について

ちょっと短かったかもなぁとも思うが、これはもともとコンセプトがあって設定した日数だ。
3日でも1週間でも、来てくれる人は来てくれるだろうし、来ない人は来ないだろう。1週間では、僕も毎日顔を出せない。 写真展に来る人にとっては、作品見るだけが楽しみではないはずだ。少なくても僕の写真展ではそうでありたい。僕に合うことも楽しみにしてくれる人もいるだろうし、旧知同士が再開したり、知らない人同士が知り合ったりする機会になれば良い。 そういうことが起こる可能性を高めるには、人口密度を高めれば良い。日数短くして、一気に来てもらったほうが、そういう偶然は起こりやすくなるはずだ。

この狙いは、それなりに実現されたと思う。一部では効果があり過ぎたくらいだ。長居してくれた人が多かったのは、この効果もあったからなのでは。

とはいえ、やっぱり短かったかもしれないなとも思う。僕の知らないうちに来てくれた人が、知らないうちに感想書いてくれれば何かドキドキ感があるし、日程の都合で見に来れなかった人も居ると思う。
3日間では、評判聞いて見にきましたって言う口コミが伝わる時間がほとんどない。そういう反応が起こるかどうかを評価することが出来なかった。
1週間やっても良かったかもしれないな。自分でも3日じゃもったいないなというような仕上がりだったし。

●展示物に値段をつけ、その価格も市価よりだいぶ安く設定したのも面白かった。
ちょっとくらい値上げしても売れた数は変わらず、もっと儲かったのだろうが、別に今回は数万円の利益を目的としてやったわけではないので正しい価格設定だったと思う。
3000円なら買ってみようか、という視点で作品を見てくれる人が増えたならば嬉しいことだ。 ただ単に鑑賞するだけなら、「ああきれいですね」で終わってしまうが、作品の中からどれかを選んで金を払うとなると、鑑賞のしかたはより厳しくなるはずだ。

信頼性のある人気投票やったとも言える。結果はけっこうあきらかだった。人気があったのは自分でもそれなりに気にいっているやつが多かったが、わかりやすくきれいなやつが好まれる傾向にあった気がする。

●今回の写真展で、一部の人たちに僕の作品よりもウケた、母親の写真集。
姉と二人で作ったのでこれだって僕の作品とも言えるかもしれないが、とりあえず普遍的に通じる作品ではない。あのままでは僕や母を知っている人にしか受けないはずなので、本来ならは今回みたいな公的な場で出すべきではなかった。

途中で思い出した。これはもう一つ構想があったのだ。すなわち、写真集の最後に当時の僕の日記をつける。今回の写真展のコンセプトとはだいぶ毛色が変わってしまうが、そうすればもう少し普遍的で、ちゃんと僕の作品と言えるようなものになったはずだ。ネットにあるものをプリントして閉じれば開催期間中でも修正できたはずだが、そんな余裕も無かった。

●伝えるべき情報をちゃんと伝えられてないという点では、反省点が多い。
開催時間や場所の説明が無いという細かいものから、作品の価格、立体写真の見方、写真展の存在自体ももっと頑張って宣伝すべきだった。

「それぞれの作品にはいろいろと思い出があるんでしょうね」という感想を残していってくれた人がいるが、多分すべての作品に対して、そのときの登山記や日記をHP上にアップしている。
作品自体の出来よりもその背後の物語が面白いから採用した写真すらある。が、初めて僕の作品を見た人はそんなの知るはずも無いよなぁ。そのあたりをちゃんと紹介しておけば、もっと興味を持ってくれたのではないかと思うが、それができていなかった。せっかくそれぞれの作品に対して、相当な量の情報を残しているのだから、紹介すべきだよな。

●動画・立体写真のプロジェクタもの。
参考出品というくらいの完成度でも出そうと思っていたが、その程度にはちゃんとできて満足。 「今日のごはん」見ると、3ヶ月ほど前にできた構想だということが分かる。原理は昔から知っていたが、プロジェクタ使えば個人レベルでも展示できるのではないかと。

しかし実際には、解決すべき課題もたくさんある。スクリーンはどうするか、プロジェクタ、メガネ、フィルターはどこで手に入れるか。写真は撮れそうだが、どうやって動画にするか。スムーズに展示するにはどのソフト使ってどんなデータ作るか。同期はとれるのか。位置調整は可能か。

撮影だけじゃなく、ソフト、ハードを組み合わせたシステム作り、調達、全部自分だけでやっている。日数が少ない中で、よく解決できたと我ながら思う。作品自体の質の高さはまだまだ改善の余地があるが、とりあえず成功はしたと思う。
表示するためのPCは、はじめノートパソコンを入手しようと思っていたが、結局は普段から使っているデスクトップPCを会場に持ち込んだ。開発環境=展示用マシンとすることで、気を使わなければならないところが一気に減る。パワーポイントのデータをノートPC+プロジェクタで表示するときに苦労したことのある方は多いと思うが、そういうたぐいの苦労を激減させた。
そのかわり、写真展期間中にいろんな手をうつことが困難になった。作品刷りなおすとか、宣伝ふやすとか、そういうのがやりにくかったので、夜も酒飲んでばかりだったな。まぁ一長一短だ。


今回の写真展、やろうとはっきり決めたのはプリンタの機種選びのときなので1年ちょい前だ。写真展やるならこの機種、やらないならこの機種だというときに、やる方を選んだ。
当時の同居人に半額出させたが、結局僕しか使っていない。が、彼は僕に写真展やれとずいぶんけしかけ、多大な苦労を強いさせた当の本人なので、特に引け目は感じていない。
その直後から具体的に動き出しているので、やっぱり準備には1年以上かけている。

どうせやるのならば中途半端なものでなく、本当に僕にしかできないようなものをやりたい。自分で満足できるようなものを。
でもそれにはどのくらいの時間と手間が必要なのか、検討もつかない。もともと僕は、自分の作品を見せるという欲求はそんなに高くないし、莫大な手間をかけるのは面倒だ。

面倒だが、やる限りは誇れるようなものをやりたい。個展やるのなんて生涯一回きりだ。2回目をやることを禁止するわけではないが、1回限りのつもりで準備する。後悔の無いにやろう。初めてのことなんで洗練さは望めないだろうが、完成度は低くても、やりたいことは全部含めようと思っていた。

そんなわけなので、いろいろなことを自粛して、準備に望んでいた。
たとえばこの1年は、ほとんど釣りに行っていない。飽きたわけではない。釣りに行っても今回の写真展にはつながりにくいから、回遊魚がまわってくる季節になっても、スーパーの魚ばかり食べていた。

読書時間も大いに削られた。ずいぶん長いこと図書館行っていない。読んだ本なんて普段の3分の1くらいなんじゃないか。テレビも新聞もゲーム機器もない僕の生活の中で、読書は非常に重要な時間なのだが、そんなことをする暇があれば写真整理をしようと。

揚げ物にビール、刺し身に日本酒、ザーサイに紹興酒、チーズにワイン。彼らともしばらく疎遠な関係に。彼らは幸福を運んでくるが、眠気も運んでくるからな。
帰宅して料理して、ほろ酔い加減で小説読む。そんな時間の後半部分は、パソコン向かってトーンカーブいじくる時間に置きかえられる。



仕事が終わったら酒が飲める生活は素晴らしいなぁ。
写真展準備期間は4時間睡眠生活が身について、けっこうそれでいけるのかと思ったらそうでもないみたいだ。 今日は寝坊して遅刻しそうになった。新しい仕事だし、出張もあるし、気を抜いていい時期でもないのだけど。

久しぶりに買い物行ってサンマ買ってきたら、同居人とバッティングした。少なくても食材に関しては、もっと報告連絡相談が必要だ。


人付き合いをもっと減らして、黙々と作業をするつもりだったが、予定よりもずいぶん社交的だった。
が、そういうときに会った人たちは今回の写真展にもずいぶん協力してくれたし、これからも色々力を貸してくれるだろう。
とはいえ、中止した会合もいくつかある。義理でやるようなものだけでなく、皆で会っとかなきゃなというのだって中止している。これからフォローしないと。

あと、あれだ。デートもかなり自粛。いや自粛しなくてもやらなかっただろうが、写真展が終わったので、女の子を誘う努力をしない理由がなくなってしまった。これから仕事が忙しくなりそうって言っても、理由として弱いんだろうな。

まぁ。そのうち。おいおい。
お日柄を選んで。いづれまた日を改めて。
前向きに検討してみようかと思わないわけでもないような気も、するときもありますので。



久しぶりに、一人で夕食。
ラジオ聞きながら「今日のごはん」をだらだら、だらだらと長い時間かけて食事するのも好きだ。

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