梅雨らしい週末。図書館行ったり近所にランチ行ったり。
姉の家へ遊びに行く。
そういえば、小さい頃住んでいたところの近所に米軍基地跡があったなぁと何となくググってみる。
するとまさしく僕の住んでいた近所のことがいろいろ出てきて、そのあたりは米兵相手の歓楽街だったということを初めて知った。
ネット上に出ていた、「現在でも当時の雰囲気が残っている交差点界隈」というのは、物心つく前からテリトリーにしていた場所で、友達も近くに住んでいた。僕が住んでいたマンションは、米兵向けキャバレーの跡地に作ったらしいことも初めて知った。
でも別に小学校の友達に、父親不明の混血児が居たわけでもないし、外人なんてうちの英会話の先生くらいしか見かけたことはなかった。米軍基地跡に何度か忍び込んで探検したことがあるくらいで、基地の街、という実感は無かった。自衛隊のお祭りがあったり、観閲式を見に行ったりと、自衛隊の町という空気はあったが。
もうちょっと調べると、米軍基地の町だったのはベトナム戦争のころで、その当時はやっぱり娼婦が集まってきたり、混血児も発生したりと、占領下の基地周辺で起こるような諸問題はあったようだ。
ぼくが生まれ育ったのは、そういうのが一段落して、基地も返還されてできた、街を一新している最初のころ、という状況だ。
確かに、マンションも学校も公園も、すべて僕が産まれる前後数年で作られたもので、それよりも昔の時代の空気を示すものって、小学校のシンボルになっていた椎の木くらいが唯一の例外だったかも知れない。
学校の友達だって、産まれた時からそこに住んでいた僕は最古参に近い方で、先祖代々住んでいた家庭は、学区のずいぶんはじっこのほうにしかいなかった気もする。
町の雰囲気も垢抜けず退廃的というか、何もないわけではないが明らかに時代遅れで営業してるんだか何だか分からない店は確かに近所に散見していたが、あれは基地が無くなって十年後の歓楽街の姿だったのか。
僕の幼少時の思い出が宝石箱のように詰まった土地はそんな場所だった。
娼婦が跋扈するのも、小学校の窓から傷病兵がかつぎ込まれるのが見えるのも、街として望ましい状態ではない。
が、そんな場所でも十年程度の時間と人々の努力で、けっこう再生できちゃうのだな。