友人が主催している釜石応援イベントにスタッフとして呼ばれた。
僕は釜石行ったこと無いし、「震災で被害を受けたリアス式海岸のところの町」という程度の認識しかないが、微力ながら協力する。まぁ、主に戦力として計算できるのは、僕というよりは我が家の20リットル寸胴鍋だろう。
3枚におろし忘れたメバル捌いたり、写真係やったり、娘の面倒見たりで案外手一杯だったが、プレゼンターの皆さんの発表内容は質が高く、面白かった。
特に気になったのは、「まがりやプロジェクト」という活動で、東京と釜石でそれぞれの家に泊まり合うというもの。お互いがゲスト・ホストをやりあえば、お互いの立場が理解しやすく、仲良くなれるのではないかと思うし、実際にやってみたい。
まがりやというのは初めて聞いたが、南部藩の農家に見られる、家と厩が直角の関係に作られた建築様式、とのこと。
そうか釜石って南部領なのかと、今更ながらに釜石の距離感を思う。
ワークショップでもかなり皆さん活発に議論していた。
時間が短く、初対面同士の人がほとんどだと思うが、やはりこういうイベントに参加する方々は意識が高いのだろう。
我が家の寸胴鍋の容量が仇になったか、ブイヤベースは当初の想定以上開封され、相当作りすぎたらしい。
たくさんあまったので皆に一生けんめい食べてもらった。具の割合も随分少なくなってしまった。
正統派のブイヤベースというより、当地の名産の廃棄物?利用のためか、ちょっと和風テイスト。青魚使っているからかな。たしかにこういう感じだと、鮭入れると合う。
スタッフの打ち上げには参加せず、二歳児と共に帰宅。
当然晩ごはんはブイヤベース。リゾットにしたら大変美味しかった。
昨日のイベントで、妻が思ったよりも疲労が少なかったということで、動物園へ。
ズーラシア、夢見ヶ崎の二つの候補のうち、大手のズーラシアの方を選択。思ってたよりも遠くないところにあり、思ってた以上に立派な動物園だった。今週半ばの全館オープンを経ると、日本最大の動物園になるらしい。
動物園の動物には、可愛いのとそうでないのがいる。どの動物でも、赤ちゃんのころは可愛いという傾向はあるものの、同じ赤ちゃんでも凄く可愛いのと、生涯を通して不細工なんだけど、比較的マシな時期という程度のもいる。
これは人間の側から見た一方的な視点なので、ヤギならヤギ界の、パンダならパンダ界の美醜の価値観はそれぞれあるのだと思う。
が、人間から見た他の動物の可愛さの判断基準は、確かにあるなあと感じた。
そしてこの価値基準は、子供の可愛さにも通じるような気がする。
うちの娘は、人からよく今が一番可愛い時期ですね、と言われる。
今後の経過は未経験なのでわからないものの、確かにそんな予感はしている。
この一年間くらいは、確かに本当に信じられないほど可愛い。満面の笑みを見せてくれたり、つまらないガラクタに興奮してキャッキャと喜んだり、覚えたての歌をデタラメに一生懸命歌ったり。
この可愛らしさは、動物的なものと人間的なものが混ざりあったところにあるのだと思う。
生まれたての赤ちゃんは、健気で神々しい感じはするが、全然笑わないで泣くばかりで、愛らしさは特に感じない。
人間成分が感じられず、まだ自然そのもの、動物そのものという存在だ。
娘ももう少し大きくなれば、いっちょまえに生意気なこと言い出すのだろう。現在はまだ動物成分が残っているというか、ペットみたいな生き物が一生懸命人間になろうとしている姿が可愛いが、大きくなればそういう種類の可愛さは失っていく気がする。
他の動物も、可愛らしさを感じるのはどこか人間らしさが混ざっているような種類のものだと思う。
レッサーパンダが可愛いのは、表情に人間ぽさがあるからなのでは。一方、オランウータンくらい人間に近づくと、可愛さが減ってくる。
クラゲに感じるのは可愛さではなく綺麗だというのは、人間成分が少ないからであり、クリオネはちょっと人間ぽい形をしているから可愛さを感じる。
グラフにするとこんな感じだろうか。
なお、ここで言う「可愛さ」とは、昭和期に生まれた我々世代のニュアンスであり、ダイオウグソクムシでも何でも、とにかく対象を選ばずに「可愛い」という表現を使う平成生まれの女性が使う表現は、理解不能なので論じない。
広い動物園を全部見るつもりも無く、ちょっとだけ見るつもりで実際にそうしたのだが、それでも割と疲れた。
母の開いていた英語教室の指導方法は、決まった文章を何度も音読して、暗記するまで繰り返す、というようなものだった。
最近、娘はどんどん言葉を覚え、いつのまにやらかなり普通にコミュニケーションとれるようになってきているが、その姿を見ると母の指導方法は正しかったのだろうと思う。
「これ、ナイナイしちゃって良い?」
何か言おうとすると、毎回三回は同じことを繰り返す。毎日毎日、言いたいことがあるたびにそれを行うのだから、起きている間はずっと言葉の練習をしていることになる。
日本の英語教育でそういう手法をとるのは中1のころだけだったように思う。平均的な日本人の英語力は中1レベルどまりのような気がするが、その原因の一つかもしれない。
娘は、二六時中話し相手を求め、これを行う。
言語習得の環境として、これもとても良いのだろう。
僕はフランス語語は全然分からないが、フランスで自転車旅行していた際は、必要に迫られていくつかのフレーズを覚えていった。一つ言葉を覚えれば、生活レベルの向上に直結するのである。その生活を一、二ヶ月続ければ、フランス語もそれなりに使えるようになりそうだと感じたが、いま娘が経験しているのもその生活だよな。今まで、自分の希望が我々に伝わらず、ただ全身で泣き叫ぶしかなかったのが、口をちょっと動かせば通じるのだから。おそらく娘にとっては、言葉一つ覚えればドラクエで呪文一つ覚えたくらいの効果を実感しているに違いない。
半年程度で一つの言語を相当にマスターできるのは、このあたりがポイントなんじゃないかと思う。
コンピューターソフトに思考プログラムを組んだり、機械に知的な動作をさせるのは、不可能ではないがそれなりに大変だ。
計算機や機械は、正確に素早く単純なことを行える。なので何か複雑なことをやらせようとすると、その複雑なことを一つ一つ分解していき、単純なことの組み合わせに表現しなくてはならない。
たとえば四目並べの思考プログラムを作るには、四つ並んだ状態とはどんな状態なのかを数式であらわし、思考プログラムには四つ並べると価値があるということを教える。次に相手が四つ並べられそうならばそれを防げ、というようなプログラムにする。このような作業を延々を積み重ねていくと、ようやく人間の思考に近づいてくる。
娘を見ていると、そんな作業をしなくても勝手に自分で複雑な作業を習得している。 何でもかんでも、親や周囲の人のやっていることを真似したがる。
すごく便利だ。この「人真似ができると嬉しい」という機能は。
神様が作ったのか、長い進化の過程で習得した能力なのか。
何かを教えようとするときに、その動作を分析して単純化する必要はなく、ただ目の前でやって見せれば良い。人の真似をするという単純な行動原理があれば、環境次第でどんなに複雑な行動でも、やがて習得できるようになるだろう。脅威の学習システムだ。
もちろん、こちらが真似して欲しくないことまで真似してくるが、まぁそういうものだ。
最近はさらに、自分自身で実行できると嬉しいという機能が発動している。
着替えでも片付けでも、これまでどおりこちらがやろうとすると怒り、自分でやりたがる。
急いでいるときに不器用にボタン外そうとしているのを見ているのはじれったいが、これも学習の成長の過程なのだから仕方が無い。
計算機や機械は、一度教えてしまえば再現性は抜群だし、教えたことはすぐさま反映され、反復練習の必要は無い反面、デバッグ作業が必要だ。要求が複雑になるほど、デバッグ作業の手間は膨大になってくる。
一生けんめいボタンはめるの見守っているほうが、よほど楽だし幸せだ。
幸い中の不幸、という言い方はあまりしないが、まぁそんなような状況になった。
単なる不幸側にならなくて、とりあえずほっとしている。
そんなわけで今年のゴールデンウィークは子守りに専念することになりそうだ。
晩飯はこのところ週一で出てくるちゃんぽん麺。
午後展示会見学。
移動がわりと色々効率的に行なえ、そのついでに雑用いろいろこなすことができて、個人的には大きな達成感。
晩飯係も担当。