早起きして土手をジョギング。走るのなんて久しぶりだが、思ったよりも走れたな。
昼は新宿でお買い物。歌舞伎町で蕎麦を食った。
スーパーで肉買って来て、焼酎なめながら肉を炙って食った。
車の免許の更新をしてきた。眼鏡使用限定解除。
自宅の隣駅のインドカレー屋で昼食後、クライミングジムへ。
晩飯は中華街行こうと思ったが、よく考えると時間が無い。
じゃあまだ雨も降っていないことだし。
ということで、川原に七輪とテーブル持ち出して外食。野外で食べるという意味の外食。
ちょっとした豪邸なら敷地内だろう、という程度の距離に川原があるので、庭としてけっこう気軽に利用できるはずなのだ。
昨日の残り物の豚肉や鶏肉、長ネギなんかに櫛をうち、適当なタレ作って焼いた。
それなりに手軽に準備できたが、まだ改善の余地はあると思う。数をこなして慣れていき、夕食に一皿余分に作る程度の気軽さで野外の晩餐をできるように慣れるといい。
それにしても、単に焼くだけでなんでこんなに美味いのだろう。 冷蔵庫に転がっていたエリンギも、軽く炙って塩つけるだけで、もうこれ以上のものは望む必要は無いな、と思える。
火が通ったものを美味いと感じるのは、衛生学的に理に適ってはいるが、手の込んだ料理をする必要もなくなるな。
ガスで炙ったものでもそれなりに美味いが、炭火はさらに美味い。遠赤外線がナントカ、という効果もあるのかもしれないが、木炭の煙で燻され、香りがつく効果は無視できないだろう。
それ以外には、暗闇で火を囲むことによって生じる情緒的効果かな。美味い不味いなんて情緒的なものだから、ガスよりも木炭がなんとなくうまそうに思える、ということも、偏見というよりは具体的な立派な調味料だ。
なにしろ、人間はサルでなくなった太古の昔より、火を囲んで食事してきたのだろうからな。
いつか築地で買ってきたまま冷凍庫で眠っているウツボを料理した。
酢豚のように使うことが多いと言っていたので、なんとなくそのようなものを目指してみる。
ウツボには、卵とカタクリ粉で衣をつけ、揚げる。それを野菜と共に炒めた。
長ネギ、醤油づけのニンニクをみじん切りにして香りづけ。
味付けは甘酸っぱく。みそ、酢、酒、トウバンジャン、蜂蜜。
イメージ以上とも言える、自画自賛の素晴らしい出来。 けっこう手間かけたしな。ナスとチンゲンサイは、油通ししておいたのが利いていたと思う。
ほとんど置物と化しているテレビのアンテナを調節し、ワールドカップ観戦。実はわが家にもテレビはある。
初戦勝利だ!素晴らしい。
ボール回せたわけでも無いし、見せ場はほとんど作れなかった。しかし、相手の持ち味は消して、ボール持たれてもそんなにこわくなかったし、何よりも戦う姿勢を見せてくれた。よく集中して、選手たちの表情が素晴らしかった。
前回大会では、日本サッカー史上最高のタレントを擁しながら、腑抜けた姿勢ばかりが印象的で、腹立たしかった記憶しか残っていない。
華麗なテクニックも見たいことは見たいが、何よりも望んでいるのは全力で戦っている姿だ。
今夜はそれが見られた。僕も明日から頑張ろう、という気持ちになる。
全19巻、熱い物語を読了。
昔、吉川英治の水滸伝は読んだことがある。横山光輝のマンガも少し読んだ。
が、どんな話なのかイマイチ飲み込めなかった。強い仲間たちが梁山泊に終結するという大筋なのだが、吉川英治版なんて未完だしな。
どうもそれは、原典自体がけっこう支離滅裂なところがあるから、ということらしい。北方水滸伝は、みごとにそれを再構成している。分かりやすいし面白いし、無理が少ない。日本において、吉川英治・横山光輝が三国志のスタンダードであるように、今後水滸伝と言えば北方水滸伝になるんじゃないだろうか。
・文体がシンプルで男らしい。
・ごはんがおいしそう。
・童貫軍強すぎ。
・智多星呉用先生、三国志で言う諸葛孔明の役所だったと思うが、随分と嫌われているなぁ。
・副読本の「替天道行」がすごく面白かった。北方先生と編集者の掛け合いが楽しく、良い仕事してる人たちでないと作れない雰囲気を出してる。
割と一気読みしやすい物語、文体であるが、それでも相当な長編だ。やっと読み終えたという感がある。
と思ったら、続編となる「楊令伝12」が本屋で平積みになっているのを見かけた。まだそんなにあるのか。というかまだ未完なのか。
池袋にて、父親と飲み屋へ。僕にとってはかなり珍しいシチュエイションだが、父親の若いころの話だとか、僕は会ったことの無い祖父(父の父)の話だとかを聞いた。
備忘録として書いておくと、祖父は岐阜の関の農村の、農家の長男であったが、家庭の事情によりかなり若いころから家を出て、都会で自立していかなければ行けないような生い立ちだったらしい。初めに名古屋に出て、東京に来たのは大正末期か昭和初年度くらいのようだ。
僕は何度も会ったこともある我が父上が、単身ブラジルへ渡ったのは、わりと学生運動が佳境には入っていたころだという。彼は同世代の人が持っている感覚を共有していないような空気があるような気がしていたが、そういう経緯は影響あるのかもしれない。
ブラジルへ渡ったきっかけは、ボート部の合宿生活に限界を感じていたころに、ブラジルへの交換留学生募集の話を聞き、それに応募したら通った、とのこと。
大した奨学金も出ず、世界的な学生運動の中で授業もろくに行われず、学食に助けられてバイトを探して行くうちに、日本のテレビ局の取材の助手やってアマゾンの奥地まで行って来たらしい。
そんな時代に何年もブラジルで生活していた、という事実くらいしか聞いたことがなく、なぜ一体そういうことになったのだろうと思っていたが、若き日の父の姿が少し想像できるような気がした。