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2009/11/21(土)

予報よりもだいぶ天候が良くなった。海へ出よう。
波も雲も風も無い、絶好の航海日和である。

目的はトローリングの練習。回遊魚シーズンは終盤戦のようだが、トローリングとはどんなものなのか、体感しておきたい。 相変わらず魚探の調子は悪い。接続不良のようだが、小手作だけの対策では治らないようだ。釣った経験も無く、釣れてる情報も無く、魚探も壊れてるのではだいぶ頼りないが、まぁ練習だし良いとしよう。運と勘と海鳥頼りで出航する。

海況は無風、快晴、ベタ凪の理想的条件。覚悟していたほど寒くなく、長袖一枚羽織れば十分なくらい。
中央防波堤のあたりでしかけを流してみる。仕掛けは潜航板というやつで、引っ張ると水の抵抗で沈んでいき深いタナが狙える。水深5〜10mくらい沈んでいるだろうか。魚がかかると潜航板がひっくりかえって、今度は浮上してくることになってるらしい。
このあたりの水域は、釣れるとしたらスズキなのだろうが、気配はほとんどない。まぁ、仕掛けの流し方はこんなものか、というくらいで見切りをつけ、さらに南下。

途中、風の塔でルアーを投げてみる。いかにもスズキが居着きそうなポイントで、他の船も2艇規程他が、反応なし。魚も昼寝している時間なんじゃないかと思う。スズキ釣るの覚えたら、釣り場が近くて良いのだが。

さらに南下し、富津岬を回ったところで釣り舟や手こぎボートが展開している。このあたりから海の雰囲気は変わるし、真面目に狙ってみる。今度は、潜航板に加え、ラビットも投入。ラビットというのは表層を狙う仕掛けで、ラビットという曳航物が水しぶきを上げることで魚を寄せてくるらしい。沿岸から投げ釣りで使うのと同じやつだ。

トローリングは、イワシなどの小魚を食べる魚を狙う。 大型魚に追われると、小魚は海面付近に逃げる。その魚が逃げ惑ってるの探したり、逃げ惑ってる小魚を食べにくる海鳥を探しながら釣りをする。
仕掛けを流し初めてすぐ、まさにイワシを食ってるのか、中くらいの魚がバシャバシャ跳ねる側を通ったが、どうも食いつかなかったようだ。とはいえ付近には職業漁師らしき小型ボートが2艘、トローリングをやってるのを見たし、このやり方で釣れるだろうという期待はもてる。

30分程流しただろうか。そろそろ空腹だし、諦めて昼飯食いに行くかとしかけを回収すると、潜航板に一匹魚が付いている! 英名イエローテイルの黄色い尻尾、関東名だとイナダと呼ばれるサイズのブリの子供だ。 たぶん、けっこう長い間引き回していたのだと思う。もう、かなりグッタリしている。

釣れてるのに気づかなかったという間抜けな一匹だが、初めての釣り方による一匹だ。ボウズではないのだ。大変嬉しい。

アオイソメつけて投げ釣りするより、だいぶ大物が釣れるしだいぶ楽だ。船も揺れないし、細かい作業も少ないし、クルーザーに適した釣り方だと感じた。

運が良かったのだとは思う。真っ昼間ってそんなに良い時間帯ではないようだし、海鳥たちも餌探しているというよりは昼寝していた。時期的にも回遊魚シーズン終盤戦だし、魚探なしで偶然釣れた感じだ。
が、一匹は一匹だ。本格的には来年だろうが、これから期待できるね。

小川さんの本で紹介されていた、竹岡マリーナへ行ってみる。

なんだか、びっくりするほど歓迎された。普通のレストランに客として入ったつもりなのだが、田舎の親戚の家にでも遊びに行ったような感覚で、ごはんはすごく大盛りにしてくれる。 さらに出航直前には、わざわざお土産渡しに追いかけてきてくれるほど。




竹岡あたりだと、三崎や保田よりも一段近いし、横浜往復では得られない海の美しさも楽しめるし、手頃で良いところだ。また来よう。


教育がてら、運転してもらったので楽ができた。

昼食後はまっすぐに戻る。11月の日は短く、早目早目と思っていても、また今回も日の入りギリギリに帰港。さすがに日が落ちるとだいぶ寒いが、始終ベタ凪で大満足な航海だった。

イナダづくし。
ちょうど捌きやすいサイズだが、ずいぶんサッパリしているな。腸の中もスカスカで、脂がのっていない。 外洋から入って来たばかりだったのだろうか。

お酒は先週の残りと、富山からのお土産。ともに、大変おいしかった。


2009/11/22(日)

下北沢でお買い物。
何度も試着を繰り返すのは面倒だ。自分は服を選ぶことにほとんど関心が無いことを改めて認識した。何もこだわりがないのかと思っていたが、着心地、履き心地は気にするみたいだ。

下北沢をふらつくのって初めてに近いが、ずいぶんいろんなお店があるんだな。

大学の先生の還暦祝いに参加。

何を着ていくべきか。
自分だけ正装をした場合と、自分だけカジュアルだった場合とを比較し、失敗した時のリスクが高いのはどちらか。僕の立ち位置を考えるとおのずと明らかである。
そしたら生意気に、本当に現役学生までネクタイしてきてやんの。まぁ、良いけど。

僕が入った時は出来たての研究室だったが、ずいぶん卒業生も増えて来たんだな。僕の学年前後の参加者は思ったよりも少なく、ちょっと残念だった。

既婚者が増えていた。「安田さん、結婚はしないほうがいいっすよ」と力説された。参考にしておこう。

2009/11/23(月・祝)

パスタとフォトブックを作ろうという予定だったが、あまりに天気が良い。家でマウスかちかちやってる場合じゃない。昼間も短いのだ。暖かい時間くらい、河原でピクニックしよう。

ということで、近所の酒屋でシャンパン買って、つまみ買ってコンロと網焼き持ち出して、芝生の上に陣地を広げる。なるべく手をかけず、ダラダラ酒飲んで、つまみ作っては食べよう、というコンセプト。

本当にシャンパンの似合う青空だ。マッシュルーム炙って、塩とオリーブオイルと香草かけたのがうまい。

「暖かい」「酒ウマイ」「気持ちいい」と、そんな会話ばかり続く。
それではあまりに建設的でないので、年末年始の計画を議題にしてみたが、途中から昼寝していた。

フォトブックは作らなかったが、パスタは作った。


粉に卵を加えてこねる。水は使わない。




しばらく寝かした後に、延ばす。 こんな日のために、イケヤで衝動買いした麺棒が役立つ


切る。考え方はうどんと同じ

で、できあがりもだいぶ自分でうったうどんに近かった。不味くはないが、なんだか洗練されていない味。先週食べたような生パスタのモッチリ感には遠い。もっとゴワゴワしていて、腹に溜まりそうな感じだ。実際、すげー腹一杯になった。まぁ、これは作った量の問題だが。

粉は市販の専用品だから、腕の問題だと思う。とりあえずは麺の太さが太い。
今改めて思い返すと、何も頑張って一枚で延ばそうとせず、半分にしてしまえば良いだけだったのではないかと思う。均一に薄く延ばし、均一な幅に切るのは難しいが、長さ半分にすればできたかもしれない。パスタの長さなんて、まな板の長編程もあれば十分だろう。それよりも長くなって作業生も悪化したので、これ以上薄くするのは無理だと思ったのだが。

実際作ってみて、パスタもうどんも違いは少ないという仮説は、より実感を伴ったものとなった。パスタっぽい焼きうどんとか、かけうどんっぽいスパゲッティとか、可能性はいろいろあるかもしれない。

あと、小麦粉こねた料理は、(重量/表面積)を小さくすることが重要そうだ。

2009/11/124(火)

出張。最近酒飲んでばかりだが、今日はやめておこう。

伊沢「くうねるのぐそ」

我々は、モノを食べて生きている。
食べないと生きていけないから、「生きる=食べる」と考えても良いと思う。

何を食べてるかと言えば、生き物だ。現代化学であらゆる物質を生産しているこの世の中でも、我々の食べ物は一つの例外も無く、生き物である。他の生き物を殺して食べている。「食べる=他者を殺す」ということでもある。

となると、「生きる=食べる=他者を殺す」という図式が成り立ち、これはどう考えても正しい。
このままでは生きるというのは大変に罪深い迷惑な行為であるが、食物連鎖というものを考えて、「生きる=そのうち他者に食べられる」と、右辺に行くこともあり得るのだとおもえば、すべての生き物が等質になる。お互い様だから仕方がない、食ったり食われたりしながらそれぞれ精一杯生きていきましょうか、ということになる。

だが待てよ。
我々現代人は、死んだら火葬される。生物界から離れ、単なる無機物になる。生前は蚊に食われるくらいがせいぜいだ。けっこう大食いなのに、これじゃ食物連鎖の秩序を無視した困ったちゃんだ。

そこで本書。
食べる、という行為にはもう一つの側面がある。 我々の消化器官は、食べた生き物を完全に無機物にするまでに分解できるほど高性能ではないので、食べた後には排泄する。この、「排泄する」という行為によって、「生きる=食べる=排泄する」というサイクルと、「生きる=食べる=他者を殺す」というサイクルが、見事なほど美しくつながることを解説してくれる一冊である。

我々の現代文明は、死は忌み嫌うだけ、汚物は隠すだけで思考を停止させている幼稚な文化だと思う。
まぁ堂々と人に見せるものではないが、そろそろじっくりと見据えて考えないといけないのかもしれない。 日本中どこの山に登っても、自然の美しさよりも屎尿問題の重大性の方が目につく時代なのだ。

本書は、ライフワークとして野糞をし続けてきた半世紀と、その思想、様々な効用、具体的方法を解説した本だ。 読む前は奇をてらった芸術家とか、そういう変わり者がやってるのかと思ってたが、作者はとても誠実で几帳面で真面目な人柄が感じられる。キノコ写真の第一人者らしいが、自然に対する情熱が「千日野グソ」などに駆り立てたらしい。

オビには、「世紀の奇書」と宣伝されているが、案外このあたりの切り口が、現代社会の歪みを矯正してくれる気もする。
野外派だけでなく、都市生活する人は一度読んでみると良いと思う。 特に最終章は、「この人よくやるなぁ」と苦笑しながらも、驚愕の観察結果に胸を躍らせよう。食事中は避けて。

まぁこの人の言うように皆が野糞する社会にしなくても良いと思うが、世の中にこういう人が存在するのは良いことだと思う。僕自身は、毎日野糞しようとは思わないが、まぁ機会があったら考えてみるか。

2009/11/25(水)

冷蔵庫をチェックすると、痛みつつある食材がけっこうある。出張生活が続くと対応がしにくい。

2009/11/27(金)

我々技術者は、日々コツコツといろんなデータをとっている。
教育を積んだ優秀な者たちが、それぞれ最新の注意を払って、整合性をとりながら長い時間をかけてデータをとり、まぁそれで給料をもらっている。

しかし、断言しておこうか。
そのデータの何割かは、まったく意味の無いものだ。どんなに頑張ったって、結果的には何の役にも立たないデータを、日程に追われてヒイヒイ言いながらとっている。
無駄なデータを積み上げて、初めて見えてくるものもある。だから、無駄なデータを積み上げることを恐れる必要はない、ということもあるにはある。

だけど、根本的なところを考えておけば最初からわかるはずなのに、そこに目を向けずに枝葉に執着し続け、何人もの人が長い間無駄なことをしているのって、案外あるんじゃないかと思う。 対処療法ばかりに目を向けるとそうなりやすい。気をつけよう。


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