とりあえず試験終了。
受かるのか落ちるのかは知らんが、これで忌々しいものからは開放された。試験前は、どうせ勉強やらないとしても、やらなきゃなぁという義務感が生まれ、大変に気が重くなる。それがなくなった。これからは素直に未来のことを考えよう。
ということで、もうすぐとるつもりの休暇に向けて、準備、買い物等。
週末の新宿で宮崎アニメを見る。
宮崎駿の最新作っていう以外にほとんど何も事前知識を持たずに見たが、非常に面白かった。
海の描き方がスバラシイ。日本の沿岸部の、絵画的な美しさのない景色を、ちゃんとそのまま表現しているのになんかキレイになっている。半島の小さな漁村のはずれの造船所。入り江と磯場。山を通って海へ抜ける国道。確かに日本の海だ。
崖の上の家なんて、あの緑のフェンスがあるだけでヨーロッパや絵本の世界ではなく、海岸沿いの集落にありそうな家に見えてしまう。
夜の静かな海を走るタンカーの列。嵐の海の生き物のような盛り上がり方。アニメらしいデフォルメがすごいのに、無理なく大自然を感じさせる。
何の変哲もない、ただ紅茶を飲んでラーメンを食べるシーンだけで魅せてしまう。そういう表現力がすごい。 波の魚の躍動感、アニメ絵なのにちゃんと生き物動きをしている魚の群れ、フナムシ。こういう本→でアニメの作り手の基礎知識を読んだので、そういう視線で見てみたが、それが面白かった。
自然界にあるものを徒に擬人化して、カワイイ可愛いって喜ぶスタイルはあんまり好きじゃないんだが、まぁ僕も大人なのでそういうことに目くじらたてない。 それよりも、一つ一つの表現が非常に魅力的だった。
まぁ、ストーリーは、あまり考えないほうが良い。宮崎駿が、自分の好きなものをいっぱい並べたものなんだろーなー、という感じ。
竹熊博士の鋭いコラムは必読。たぶん皆がなんとかく感じる疑問を、的確に説明してくれてる。
たしかにこの映画、お茶の間で家族みんなが見るようなものではないと思った。
寿司屋で寿司を食う。ものすごく高いイメージがあるが、実際にはそこらへんのチェーン店居酒屋いったときだって、下手すりゃ5000円くらい使うことはある。まぁ、いちいち寿司屋行ってびびることもないだろう。
高級店ではないからなのかは分からないが、超おいしいって感じでもなかったが、握りたてのおいしさは味わえた。しまあじがおいしかったかな。
明日からはまた出張、家に戻ったらすぐに旅へ出発する予定。なので支度は今日しかできない。 行方不明のカメラの部品発掘したり、買出しに行って豪雨につかまったりしているうちに一日が終わる。
同居人と一緒に食事するのはずいぶん久しぶりな気がする。2ヶ月ぶりくらいか?
今日はだいぶ茄子づくし。友人が畑で作ったやつをくれた。焼きナスはうまいな。ただ単にグリルで焼くだけ。
ぬかづけも久しぶりに作って、けっこうおいしくできたが、またしばらく作れない。冷蔵庫に封印しておく。
昨日は変な時間に寝てしまって、また起きて、うまく寝付けず。しかし今日はノー残業デイなので、大きな問題にはならない。
放課後は、靴とSDカードを買いに行った。SDカードやすいなぁ。
野菜をたくさん使って、それなりにおいしいので良く利用しているラーメン屋。
最近の状態から判断すると、民宿やっても成り立つんじゃないかとすら思う。
副業で民宿やろうか。1泊2食付き3000円くらいで。週末のみ営業、客は紹介制にして。現状と大きく変わらないんじゃないか?
割と身近なところで弔事。
今日はそれほど忙しくなかったし、そういうことならば出席しなければならない。 早めに仕事を終えたいところだったが、明日から休暇に入るのでいろいろ連絡ごとがある。さらに、帰宅直前になって緊急の仕事に捕まり、なかなか帰れない。
まぁ仕方がない。
こういう言い方も何だが、忙しい時にはさらに忙しいイベントが重なる。そういうもんだ。
弔事っていったって、もう90過ぎた婆さんだ。不幸というよりは、来るべきものがきたというだけで、寂しくはあるが嘆き悲しむようなものでもないだろう。
クリスチャンであり、生涯を独身で通した彼女は、遺体を病院へ献体すると遺書を残していた。 葬式もなるべくやるなって云っても何もやらない訳にもいかんだろうから、遺言どおり親戚のみで自宅で簡素にやる。(新幹線乗って駆けつけたときは既に終わりかけてた。)
立派な考えで彼女らしいと思う。
が、割とマヌケな場所に遺書が保管されていて、ずいぶん探したらしい。他にも、死んだ時に着る衣装などが準備されていたそうだが、これは色々すんだあとに発見された、とのこと。他にも何か残してあるんじゃないか?
死は、誰にでもいつか必ずやってくるものだ。そんなの誰でもしっている、ごく当然のこと。自分が死後にどう扱われたいか、ある程度以上は本人の希望が尊重されるべきだと思うが、当然死んだら希望を言えなくなる。
生きているうちに周囲に伝える、あるいはその準備をしておかなければならないが、そういう話題はもっとオープンにしておいたほうが良いんじゃないか?
「あたしが死んだら葬式は〜〜に・・・」「いやだわおばあちゃん、そんなこと言わずに長生きしてくださいよ」
いろんなところで繰り広げられていそうな会話だが、これでは愚者の会話だ。長生きしようがしまいが、いつかは必ず死ぬのである。長生きした結果、死が避けられる訳ではない。 いつかは来るべきものに対して早いうちから準備をしておく。正しい判断だと思うのだが、そういう会話を避けるのは死を忌み嫌ってるからだろうか。
自分の死後はどう扱われるかをある程度イメージできた方が、安心して死ねる=安心して生きられると思うのだが。より充実して生きるためには、もっと死を身近に考えた方がいいと思うが、どうだろう。
僕だって考えておかないといかんかな。寿命はまだこないにしても、いつどんな形で死ぬかは分からないからな。