友人がIKEAに行くというので付き添いに。
僕が興味あるのは、わが家の収納不足を解消するような棚とか台所まわりの小物とかだろうか。
独身男性のルームシェア生活では、くつろぎの空間を素敵に快適にすることに手間や金をかけるよりも、積極的に外にでていくべきだと思うが、空間を効率的に使った方が片付けの手間も減ってシンプルに暮らせるんじゃないか、というくらいの考えはないこともない。
IKEAは、商品もさることながら、何より店の構造が面白かった。
普通のお店に買い物にきたというよりは、テーマパークにきたような感じだ。
順路にしたがって歩いて行くと、まず2階がショールームになっている。売り場面先は広大なようだが、各所がパーテションの小部屋に区切られ、それぞれIKEAの商品を使ったたくさんのコンセプトの部屋をどんどん例示される。
で、そこに使ってある製品は1階の売り場に並んでいて、そこで気に入った物を買う、というデザインだ。
説明員少ないな、というようには感じなかったが、たぶん客:販売員の数はすごく効率的なのだろう。事例がたくさんあれば自分でイメージできるし、押し付けがましくないのは良い。
お店の空間が、すごくはっきりと目的をもってデザインされていて、うまく商売してるなぁ、と感じる。かなりな距離を歩くことになるので、けっこう疲れてくる。疲れてきたなぁというところに、ちょうど飲み物の販売していたりして、そういう休憩スペースでもぬかりなく自社製品を使って、使用例を示してくる。
客を順路にそって流すことによって、空間を効率的に利用して客に高い満足感を与えるという考え方では、いつか行ったソバ屋を連想したな。そのソバ屋は常に行列ができていて、お店もあまり広くないのだが、それを感じさせないようなうまい作りだった。図にするとこんな感じ。
灰色が行列の人、青が会計終えた人、赤が食ってる人。
図を描くといろいろ分かった。
場所によって、何を待ってる人かがはっきりと別れる。これは、例えばよしのやのような店と比較してみればその違いが分かるだろう。
よしのやでは従業員が動き回る。客と従業員の接触面積が最大になるような、胃袋の内面のようなレイアウト。
そういえば、よしのやには食券は無いようだ。よしのやのポリシーらしい。
食べてる人、牛丼待ってる人、会計待ってる人はそれぞれ店員が把握し、ぐちゃぐちゃに位置することになる。
よしのやでは従業員が流れ、客が止まる。この蕎麦屋では従業員は止まり、客が流れる。 客をベルトコンベアに乗っている加工物のように流し、サービスを与えていく。 その結果どうなるかというと、従業員の仕事が専門化、単純化されるんだな。 従業員はその場で待っていれば次々と作業がやってくるから、少ない人数で効率的にサービスを与えられる。 よしのや型だと、お茶いれて運んで戻って、注文取りに行って、ぎゅうどん運んで会計してと、従業員は多能工であることが求められ、移動する距離も増えればそのためのスペースも必要だ。
また、従業員の動き回るスペースも不要になる。そのことで生まれたスペースは、そのまま空間として残している。だから店舗は小さく席は満員なのに、食べている時はだいぶ広く感じた。
IKEAもこの蕎麦屋タイプ。図示するのは面倒なので、リンク先でも見てもらいたいが、客が順路にしたがって流れ、どの場所にいるかによって、何を求めている客なのかがほぼ特定できるようにデザインされている。
やっぱり、ヨドバシカメラやドンキホーテと比較すると、店舗の作り方の思想がちがう。
これからこういう店増えてくるのだろうか。
いろいろ見て実際に家具が欲しくなったかというと、こういうのは売り場で衝動買いしていては、例示されているような素敵な感じにはならないだろうな、と思った。ショールームの部屋は統一されたコンセプトでレイアウトされているが、我々が生活している空間はそうではない。いろんな時期に衝動買いしたものをツギハギにレイアウトしていったものが、我々の生活空間だ。単品自体は素敵なものだとしても、明確な意志統一がないからごっちゃっとするのだろう。
いろいろ参考にはなったが、少なくても大物はすぐには買えないよな。
新規購入よりも、最低限の掃除はしないとなぁ、と思った。
製品の値段は、びっくりするほど安い。これもやっぱりアジアの安い労働力のおかげなんだろうけど、それでもどうなっちゃってんの?っていうような値段がついてる。まぁ100円ショップが成り立っているからなぁと納得させるが、値崩れとか恐れていないみたいだ。
びっくりするほど安くなっていた食器類を数点購入。あと、量り売りしていた布切れも買った。テーブルクロスにしよう。
IKEAに併設されたレストランにて。
案内板とかPOPが、完全に西洋の雰囲気だ。日本語で書かれているが、向こうの文化だなぁ、と感じる。外国の空港にでも来たかのような印象だ。
北欧も行ってみたくなった。きれいそうだなぁ。
うちに不足してるのは、洋食器よりも和食器なんじゃないか。そう言ったら友人が何枚か呉れた。
スーパー行ったら静岡産の良さそうなアジが。2尾で398、夜までまてば半額になるのだろうが、鮮度優先てことでその場で購入。
白子が入っていてアタリって感じ。
錦糸町のイタリア料理店にて。父親が誕生日を祝ってくれた。
伯父の尺八コンサートを聴きにいった。 とても立派な会場で、とても立派な、大々的なコンサート。
尺八20人程度、お琴15人くらい、その他、曲によって鼓が入ったり声楽が入ったり、日本の楽器を用いたオーケストラで、伯父の属する楽曲団の一大イベントらしい。
尺八の音は面白いな。楽器による曲を聴いているというより、山の上で風音を聴いているように感じる。ああいうアナログ的なものを、楽譜などの記号的なものに置き換えるのって難しそうだが、作曲する時ってどうやってるんだろ。普通の音楽を作曲する時もどうやるのか知らないが。
演奏のメインは、「竹取物語」の歌劇。 これが声楽も交えた、総勢5、60人による大楽曲団。
聴衆である我々も、シェークスピアの教養はないが、竹取物語なら粗筋知っている。
伯父もキャリアは長く、腕前もそれなりなものとは言え、趣味の領域は出ていないはずだ。
しかしさすがに指導陣とそのツテらしきプロの方々が要所要所に入ると、やっぱりさすがだな、と思う。
特に男声の独唱の先生の声はよく通り、分かりやすく、情熱的に、冷静に、物語を進めていく。オペラのキャリアを積んできた、名のある人らしい。
一時期、「アジエンス」のラジオCMでやっていた、East meets Westと題するシリーズを思い出した。
30秒のCM時間の中で、第9などのオーケストラ曲を雅楽でやってみたり、沖縄風にアレンジしたり、西洋と東洋の芸術を融合させて新しいなにかを作るという、非常に質の高いシリーズで毎週楽しみだった。(毎週ちがう内容を流していたように思う。冠番組で一回流すだけ。何と贅沢な!)
それぞれクオリティの高い異質なもの同士を組み合わせれば、また何か新しいものを生み出すという実例を見るのはおもしろい。
今回はとりあえず義理で誘われて聴きに来たが、自分でお金払っても満足感を感じたと思う。
竹取物語も、ご存じのように1500年くらい前の我が国最古の物語だが、絵画的イメージの豊かな優れた作品だということを再認識した。
竹取物語と聞いて、日本人ならほとんどの人が、いくつかの場面を想像できるはずだ。絵本や紙芝居で見てきたような。
夜の青、月の黄色。竹林は月光に照らされ風に吹かれ、さらさらと。
黄金に光る竹、十二単のかぐや姫。
カラフルで絵画的で、日本的だ。
今回も、楽曲を聴いているだけでそういう場面が容易にイメージできる。 オペラ聴いてる人達は、シェ〜クスピアでそういうことやってるんだろうな。
途中までは、風邪に効くような食事にしてやろうかと思っていたはずだが、完成したものはそれに特化したというよりも、残り物の消化を目指したものになってしまった。
体が暖まるように生姜を多用、ビタミン採れるような野菜使う、卵で栄養採る、ごま油で食欲増強、ネギやニンニクは精がつきそう、消化系に問題があればおかゆにする、このあたりが僕が漠然と考える食事による対策だが、いつもと同じ程度にしかならなかったかな。
とりあえず風邪うつされないように、ナスは別皿に盛った。
動物全体を観察すると、平均寿命と体の大きさにははっきりとした相関があるらしい。
大きい動物ほど長生きで、小さいのは寿命が短い。その動物の大きさが分かれば、平均寿命はほぼ特定できる。
その関係によると、人間サイズの動物の寿命は30年程度になるらしい。
30歳。今の日本人の平均寿命は、70だか80だか、その2倍ちょっとある。が、縄文時代のころの平均寿命はそのくらいだったと聞くし、現代でも奥地に住んで狩猟採集生活やって暮らしてるような少数民族は、そのくらいの平均寿命になるらしい。
ほかの動物、哺乳類と比べて、人間の寿命はやたら長い。長い方がいいのかはわからんが、不公平って思えるくらいだ。
1年で一生のすべてのサイクルをもつ生き物なんかが多い中、20年近くかかってようやく生殖能力を備え、その後50年も生きていく生き物なんて他にいないだろう。70年、80年も生きてしまうのは、栄養状態が良いからなんだろうけど、地球上の限りある栄養資源を人間が独占してる証拠なんだろう。
平均寿命が30年くらいならば、なかなか妥当な数字のように思う。犬なんかの4、5倍か?体重差なんかを考慮すれば、その程度ではないかな。
というわけで僕も30歳になった。
野生動物であれば、そろそろ死んでもおかしくない年齢になったが、なんとか死なずにやってこれた。野生動物だったら平均寿命達成。もう元はとった。あとの人生はもうけ物と考えることもできる。
僕は野生動物ではないし、今のところすぐに死にそうな徴候はなく、普通に考えてあと数十年は生きるだろうから、以上のような考えは半分冗談だ。が、少しはそんなこと考えてるかもしれない。
今日はギョウザではなく、定食屋を発見した。
最近、人相が変わるほどのダイエットを行なった、ご存じオタキング岡田としお。 そのオタクの王による、オタク時代の終焉宣言、および自身のオタキング引退宣言も行なっている。 この人の話は、オタク文化を切り口にして、オタクの話に留まらず日本の現代を論じているからおもしろい。
一つの文化、一つの時代が終わろうとしている。この二、三十年、世界に秀でた数々の作品を生み出してきたオタク文化は終わろうとしている。
これまでは共同体であったオタクたちは、今後は一人一人のマニアとして生きていく。日本社会はさらに多様化、幼稚化していくだろう。その中で、個人の中の音なの部分と子供の部分を使い分けて生きて行かねばならない。
かいつまんで言うとそんな感じだが、よく納得できる。
僕も自分のことをオタク要素の強い人間だと思ってる。
けど、なにオタクなんだろう。典型的な天文オタクというには弱い分野けっこうありそうだし、マンガ読みとしても、少女マンガや同人誌は押さえていないし。
カメラといっても、もっとマニアっぽい人はいくらでもいるし、むしろカメラは仕事だ。
星景写真派の天文オタク、あるいはフリーソフト作家、そのへんの分野だろうか。
久しぶりに、本来の職場へ。結局5月は2回、半日ずつしか自分の席で働いていない。
今日も午後からは出張先へ向かう。そのため、チャリ通できないのが残念だ。あの自転車なら30分切ることも夢ではないのに。
今週は、ホテルがやたらと混み合っていて、予約を取るのが大変だった。
あたらしく定食屋を発見。
庶民的な価格の庶民的なメニュー、昭和の雰囲気を残すような落ち着いた店内、積み上げられた週刊誌、そして何より深夜も営業している。
僕が求めているものはこういうところだ。
割とお気に入りの、「イキイキ」というお店で。
けっこう割高だが、ここの手作りギョウザは良いと思う。
終電を気にしながら、どこで晩飯をとるかを考えるのも面倒だから、結局帰宅してごはんを作ることにした。
しかしまぁ、自炊に対する反射神経が落ちている。今週は一回もやってないし、最近はその程度の頻度だ。
だからなのか、台所にたってもイメージが沸かず体が動かず、考えてしまった。
いや、冷蔵庫にほとんど食材が入っておらず、わずかに残ってるものも先週末にあったものがそのまま残っているという状態がそうさせたのかもしれないが。
まぁ、結果的にはとりあえず、焼酎と残り物でだらだらと時間を気にしない食事が味わえたが。
「本を読む」というのは作者と読者のコミュニケーションなわけで、作品の優劣というのは作品自体だけではなく、読み手の状況にも左右される。
何が言いたいかというと、この絵本は僕には早すぎたな。名作ということなので楽しみにしていたのだけど。
何を言いたいかは分かったが、僕程度の人生経験では自分の経験と作品がリンクしないため、心が動くところまでには届かない。
「あ、そう。そういうことが言いたいのね。へー。」ってところで終わってしまう。
30年くらい経ったら違う感想持つだろうか。今日は今日の感想として残しておこう。