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2007/3/17(土)

智恵子の本当の空があるというあだたら山。
今日の本当の空はあおあおとしたものではなく、曇っている。あだたら山を境にして青空が終わり、雲に覆われている。位置としてはだいぶ太平洋に近いが、西に高い山が無いのか、気候的には日本海側の影響を受けるらしい。

僕にとっての初めての東北の山。高村光太郎の詩と温泉付きの山小屋とたおやかな山容が有名なあだたら山に、その小屋で昔バイトしていたという知り合いが計画してくれて遊びに行くことになった。

東京を突破するのには時間がかかるが、東北道に乗ってしまえば福島県も割と近い。予定より1時間ほど遅れて13時ごろにスキー場脇の登山口を登りはじめる。
天候の変わり目の地形に当たるので、お空のほうも忙しい。日がさして青空が出たと思えば、すぐに風が吹いて雪が降ってくる。 友人は一升瓶背負って苦しんでいたが、傾斜はそれほどきつくない。

あだたら山、漢字で書くと安達太良山、古事記にでも出てきそうな語感のこの山のいわれは何だろう。安達太良連峰の中での安達太良山の標高は1699m。最高峰ではないところに名前がついている。その頂上部はどうみても乳首を連想させ、それが目を引くので最高峰ではないところが人々にも知られる山として広がったのだろう。

山全体としても女性的な、滑らかな曲線を描いている。雪に覆われた白い山肌を眺めつつ3時間も歩けば小屋につく。今日泊まるくろがね小屋は、ずいぶん泉質の良いお湯の源泉のところに建っている。 昔から良く知られた湯治場らしく、小屋から麓の温泉街まで、延々と温泉を通す木のパイプが通っている。100年ほど前?に作ったらしい。

山小屋泊まって、こんなに豪華な晩餐になってしまうとは。
小皿の各種、20種ちかくあるだろうか。お酒もお菓子も何やらたくさんある。小屋の人たちが作ってくれたもの、お客さんが差し入れてくれたもの、迷い箸というが、ここまで多いと何から手を付けて良いものやら。 我々が提供したものとしては、手づくりチーズだとか道すがらのパーキングエリアで買ってきた珍味各種だとか。うちで漬けたゆで卵のぬか漬けも出品した。


イナゴって初めて食べた。クリスピーでおいしい。川エビの唐揚げが近いかな。

団体3つとかちあい、小屋は満員状態。友人のコネによって、バイト部屋に泊めてもらう。
労働もした。完全に即戦力として働いている元バイトの友人とは違って僕はほとんど形ばかりだが、山小屋で働くのって昔から憧れていたので結構うれしい。

というわけで食事も厨房で。上記のような豪華な晩餐になったが、一般のお客さんにうらやましがられそうだ。
小屋の管理人、バイトの子、常連さんたち(例によって常連と小屋の人間は区別が難しい)と楽しく呑んだ。だいぶ酔っぱらった記憶があるから、だいぶたくさん呑んだのだろう。


酔っ払って温泉入って、星見て寝た。

2007/3/18(日)

雪山は楽しい。美しいというのも魅力だが、雪は行動範囲が広げてくれるからだ。ほどよく締まった雪の斜面は、足場の悪い岩場も潅木帯も一様に、行動可能なフィールドに変えてくれる。ほどよいクッション性は体をやさしく受け止めて、歩いているというよりは泳いでいる感覚に近づいてくる。スキーはいて移動するもの楽しいだろうが、歩くだけでもかなり自由自在だ。急な斜面でもルート外の適当なところでも、思ったようにスイスイ行ける。

でもやっぱり危険もある。今日の天候は曇り時々晴、朝方は明るく日がさしていたが、我々が登り始めたころからは、上に登れば登るほど雲に巻かれ、稜線に出れば強風と吹雪の世界で完全にホワイトアウト。今回はこの山域を良く知る友人がガイドしてくれてるので不安はないが、あだたら山はなだらかな地形で現在位置をつかみにくい。道に迷って死んでしまうというシナリオも想像しやすい。

実際、山頂がどれだか分からなかった。あれここだったかな、道間違えたかな、というところで引き返したピークの地点が山頂だったのかもしれない。展望のまったく利かない強風のピーク立っても、少し記念になる程度のことなので行けなくたって別にかまわないが、こういうふうに危険そうだというのを実感するのも経験になると思う。


登頂捏造写真。稜線の途中にて

昼飯も作ってもらい、完全に小屋の中枢にとりいったことを実感。良い小屋だなぁ、と思う。
また来よう。次は残雪の頃にでも。


冷えた体を暖める。至福。

道路公団が民主化したところを些細なことでいろいろ実感する。やっぱりサービス向上していると思う。
良かったとも思うが、これまでどれほど無駄があったかと思うと恐いものもある。

2007/3/19(月)

聴く人が何の知識を持っていなくても、関心と理解力さえあれば納得してもらえる。そういう説明が出来なければならないと思っている。自分できちんと理解していないとそういう説明はできないし、それくらい理解していないと新しいものは生み出せないだろう。

だがやっぱり、それはそう簡単なことではない。
説明していようとしている事柄は、いろんな知識や概念を積み上げていった上に成り立たせるものだ。聴く人によっては、その前提知識を一つ一つ説明する必要もある。 同僚や上司に説明するときは、土台としている知識をある程度共有しているので、簡単な説明でもある程度補完して、理解してくれる。
だが知らない人にとっては、些細な曖昧さや不正確性を、いろんな方向から解釈して誤解が拡大する。 そうならないように一つ一つ順序だてて正確に説明しなければ成らないが、それには準備も必要だし労力もいる。

聴くほうも疲れるだろうけど。

2007/3/21(水)

父親と一緒にお出かけ。薫製器もって房総半島へ。 母親の英語教室にずいぶん長いこと来てくれていた、Nさん宅へ訪問。Nさんはサラリーマンではなかったので退職したのか何なのかは分かりにくいが、ともかく今は田園の片隅で土いじったり家いじったりする生活を夫婦で楽しんでいる。Iターンというやつだろう。

今日は天文学的には春分だが、世間的にはお彼岸ということで墓参りにでも行く日らしい。そんな日に死んだ母の思い出話をするのは丁度良いかもしれない。

話はやがて各地で食ったうまいもんとか、鳥獣虫魚の方へ広がっていく。 Nさんの農村生活は刺激的だ。自宅の隅の畑で育てた各種野菜、しいたけの話なんかを楽しそうに、おいしそうに語ってくれる。

やっぱりこういうところは生活の彩りが豊かだよなぁ。 会社と家を往復する生活では、季節の変化はおろか一日の変化、日が昇って沈んでいくことさえほとんど気がつかない。何のひっかかりもなく時間が過ぎ、今年だって明けたと思ったらもう春分だ。このまま、あっという間に1年がたち、10年が過ぎていくだろう。
それが、田園の生活はもっと小刻みなようだ。タラの芽がもうすぐ出そうだ、タケノコが出てくる、この野菜の季節も終わりだ、花が咲く、虫が、カエルが、ヘビが動き出す。
時間の変化、季節の変化、天候の変化を教えてくれるものがたくさんある。それらのいくつかは労働を必要とするし、いくつかはおいしい味覚を提供してくれる。こういう一次産業の感覚を大事にしておかないと、いつか痛い目に合うんじゃないかと思う。

父子の会話というのも何なのだろう。僕と父は昔からそれほど会話をした覚えも無いし、対立した記憶も無い。母は英語教室、姉はどこかに出ていて、父と二人で夕食を食べるというのはわりかし多いシチュエーションだった。そのときも大体黙々とごはんを食べていた。父親の話もいろいろ面白いコンテンツを持っているのだが、二人でいてもせいぜいつまらん小言を聞く程度だ。昔からそんなもんだと思っているし、僕も彼もそういう性格で二人で会話することには慣れていない。第三者が居たほうが面白い時間になる気がする。

2007/3/22(木)

西原理恵子の元ダンナ、元戦場カメラマンのカモちゃんこと鴨志田譲氏の訃報を知った。
びっくりしたが、元カメラマンで今は何かといえば、現アル中で入院中だったわけだから、当然の結果なのかもしれない。

西原ファンの中で彼の評価は分かれるようだが(もっとも2ちゃんねるの掲示板で悪く書かれていた程度なので実状は知らないが)、僕はあの素朴な文章はけっこう好きだった。
まだ40代そこそこだろう。普通で言えば早死になのだろうけど、彼の場合はそうではないのだろう。必ずしも長生きが良いとは限らない。男の場合は特に、死ぬべき時に死ぬのも生き方として重要だ。
文章を読む限り、なかなか生きるのが下手な人だったようだ。いろんなものから逃げだして、酒に逃げて、家族に暴力ふるって離婚されて。でも、死ぬタイミングとしてはけっこう上手に出来たんじゃないか?

つい一月ほど前、西原理恵子、子供たちとカンボジアに行ったという記事、写真、マンガを読んだ。もう長くないということで行った最後の旅行だったのだろうか。
最後はちゃんと家族残して、皆に慕われて。
良い人生だったじゃないか、と言ってやりたくなる。

西原理恵子も、これでまた凄いマンガ描くのだろうなぁ。

2007/3/23(金)

ピーマンは、フライパンではなくグリル(魚焼くやつ)で焼いた。ちょっと焦がして見てくれは悪いが、かりっと表面が焼けて良いかんじだ。


この三脚欲しい。

お台場行って、カメラ博覧会見学。
百数十年のカメラの歴史の中でも、ここ数年はものすごい変革期だったのだろうけど、それもそろそろ終わるのだろう、という感じ。特に驚くような技術は無く、ちょっとずつ便利になったり、ちょっと欲しいなという小物があったり。


お台場からの帰りは船に限る
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