2月の最終週、3年連続で鍋割山へ行くことになった。天気予報も割と良く、ダイヤモンド富士が期待できる。
前々から人集めて計画を立てるとなると、やっぱり負担は増える。アクセスはどうする、連絡して、天気悪かった場合は、などと考えるのもそれなりに楽しいが、天気良いのならば行ってみるかと一人で準備して出発するほうが楽だ。
が、今回は友人と二人で行くことになった。前日に「僕は行くけど行く?」と誘うと、一緒に行くと言う。
こういうパターンはありがたい。一人で行くよりも退屈しないし、負担は増えないし。
鍋割山へのメインコースは大倉から二俣を経由する道だが、こちらは林道歩きが長い。それを避けて、寄からの尾根道を行くことにする。こちらは極端に人が少なく、お気に入りのコースだ。アクセスも悪くないし、もっと使われてもよさそうなものだが。
伐採地が増えた気がする。展望の良いところがいくつかあった。
天気は、良くない。雲は増える一方で、今年も夕日は望めなそうだ。予報は相変わらず悪くないのだが、やっぱり春はこうなるのか。
ま、それはそれで良い。今夜泊まるのは鍋割山荘だ。
晴天の星空のもと、夜を徹してストイックに黙々と写真撮るよりも、曇り空の下で酒飲んで楽しくしゃべってすやすやと眠っているほうが気分的には楽だ。
15時ごろ、だいたい予定どおりの時間で到着。空は曇ったままなので、酒や菓子と共にのんびり過ごす。こういうパターンで一人でないのはありがたい。
今日は寄せ鍋ではなくてうなぎだった。確かにこの小屋の食事はおいしい。だからここでは自炊せずに、二食付きで頼んでいる。
でも、それは味そのものが良いというだけでなく、食事の雰囲気が良いっていうのが魅力的なのだと思う。同宿者は例によって中高年登山者が多いが、飯食って隣の人にお茶入れているうちに、自然と何か会話している。似たようなことに関心があるのは予想できるから、簡単な挨拶以上のことを話題にできる。小屋のご主人草野さんの話も相変わらず興味深いし、今日初めて見た草野さんの奥さんも、社交的で明朗な人だった。
いろんな人からいろんなお酒をもらった。
早朝からは良い天気。いつものように登山日和。で、いつものようにやや睡眠不足。
やや花粉を含んだ暖かい日差しもと、ゆっくりゆっくり下山。
大倉バス停に行く途中にある店。空いていたし、おいしかったし、満足。
バスを直前で逃したので、ビジターセンターの展示物を見に行った。けっこう充実していて、誠実そうな係のお姉さんは暇そうで丁寧に応対してくれて、面白かった。わざとバス遅らせても良いくらいだ。
●蛭ヶ岳 2007年ダイヤモンド富士
●鍋割山 2006年
●鍋割山 2005年
●鍋割山 2004年
●鍋割山荘
半額のかつをは千葉県産。タレとして、丹沢で買ってきたからし味噌をかけた。
五月にある人は言った。ぐるぐるぐるぐる。
というフレーズの印象的な大ヒット作。
すげー面白かった。一気読み。リリーフランキーって色々やる人だなぁとは思っていたが、こういうど真ん中ストレートに自分の気持ちと体験を表現してくるとは。
どんどん自分の感情と経験が、リリーさんのものとリンクしてくる。僕と彼はずいぶん違う種類の人間で、ものの受け止め方も違うはずだが、そうなってしまうのは彼がこの本に賭けた感情もあるし、彼の表現力の豊かさもあるのだろう。とにかく、すごく伝わってくる物語だ。
僕は多分、もっと分析的でさめた視線でマイペースだったと思うが、やっぱり母親のいろいろなことを思い出してしまう。
東京という街のとらえ方も、本当にその通りだと思えることばかり。帰る場所があるのか無いのか、そんな人たちが集まってきて、どこか違和感を感じながらもどうにか居場所を作ってくる。大雑把に言えば僕もそのうちの一人だろう。ビルの一つ一つが墓石に見えたなんて、あぁそう表現すれば良かったのかと思ってしまう。津々浦々から若者が集まってきて、関東平野のすみずみまでを家とビルで洪水のように埋め尽くしているあの光景。まさしく墓石の持つ暖かさ、冷たさと同じ性質だ。
読後、確かに一読を薦めてみたくなる。すべての人間に対して。
アボガドにマヨネーズ、塩こしょう、ワイン、にんにく、赤ゆずこしょう。強い味になったが、これくらいがかつおには丁度いい。焼酎に合う。
えりんぎ、長いも、長ねぎ、チンゲン菜なんかをゴマ油で炒め、納豆と和える。やっぱり焼酎とお似合いだ。
先週読了。
時代や文明の変化が主人公、というような物語。それぞれの時代の人びとの生きざまを詳しく描写していくことで、ローマ千年の歴史の移りかわりを描いている。
僕は小さいころから中国の古代史が好きだったが、ローマ史には東洋とは違う面白さがある。中国古代史の人間ドラマ、諸子百家の哲学なんかは面白いが、基本的に中国史は繰り返すだけだ。強力な帝国→騎馬民族の南下→農民の反乱→易姓革命という感じ。
ローマは、自分たちの国の成長の規模にあわせて、いろいろとシステムを変えていくのが面白かった。
一定数のエリート集団が一年ごとに交代しながら国を動かす時代から、一人の皇帝を置く大統領制のような時代へ。キリスト教を取りいれることにより、絶対君主制へと変わっていったのは、何故なのか、どういう効果があったのか。
ローマ帝国がうまくいった様々な要因。
他者との違いを否定しないまま、同じ権利を認めて仲間としていく。これは簡単なようで、ローマの滅亡以来人類は実現できていない。そのごの千年は、宗教やら民族やらを理由にして戦争を続けている。
流動性のある階級社会、インフラの整備、中央集権と地方分権のバランス、税制。いろいろ示唆するものがあると思う。
人間の文明は、時間の流れとともに進んでいくというのは明らかに間違っている。それを如実に実感させるのは、各巻に添えられたコインや彫刻だ。全盛期に作られた、微細で生き生きとした人間描写が、キリスト教の普及とともにあれまぁどうしてこんなにみすぼらしいものしか作れなくなってしまったの?、という出来になっていく。
たかが彫刻一つだが、並べてみると時代の何かを象徴している。様々な分野に才能が現れ、人々が豊かに生き生きと暮らしている時代は芸術も美しいし、つまらぬ内紛、中傷、異民族による破壊の時代は、技術水準も低い。同じような才能を持った人物でも、時代によってずいぶんと幸不幸が違う。
人生一度きり、どうせなら面白い時代を生きたいものだ。
ローマの全盛期から千年以上たった現在の我々の文明は、彼らのものと比べてどれほどのものだろう。
政体、法律、水道網、道路網、自由に移動できる国境、技術水準、文化、文明、温泉…
この千五百年で進歩させられたものもあるし、ようやく再実現できたものもあるだろうし、逆にできなくなってしまったものもある。
科学は進んだ。人力以外のエネルギーを使用できるようになったし、彼らの知らない知識を我々はずいぶんとたくさん知っている。
そうなると恐くなってくるのが、我々が知ることのできた知識、発展させた文明だって、何かきっかけがあればそこで止まってしまうし、何かがあれば失ってしまう可能性がある、ということだ。
今は、地球の裏側に住んでいる友人だろうが隣に住んでいる友人だろうが、同じようにメールのやりとりも電話も出来る。ちょっとお金出して飛行機乗れば、何万km離れていたって1日2日で会いに行ける。
地球上のすべての人間と、隣人と同じように触れ合えるところまで現在の文明はきている。現代社会だってそう捨てたものではない。
だがこの状態が、ずっと続く保証はない。資源の枯渇、他者に対する不寛容、そのほか現在予想不可能な原因によって、またつまらない殺し合い、いがみ合いに陥ってしまう可能性があることは、実績が示している。
材料不足のときのほうが、新しい料理を作れる気がする。今日は野菜はいろいろあったが、肉類がない。
豆腐があまっていたので炒め物にぶっかけたら良い具合になった。
不足が工夫を生み出す。
手元に、3月中旬まで使用可能な茅野行きの特急券と、3月いっぱい可能な伊豆諸島への割引券がある。なるべくなら使おうと思っている。貧乏性なので。
今のところ、今週末の天気予報は晴ときどき曇。衛星画像を見ると、大陸から乾いた空気が流れ込んでくる気配もある。
日曜の夕方に用があるが、小計画ならば行けないこともない。
どうしようかな。明るい月のもと、目的地は大島の裏砂漠か、雪の八ヶ岳を中腹から見上げるか、家でごろごろするか。
しかし、どうも雲ゆきが怪しくなってきた。
天気予報、基本的には良いらしいが、気温と湿度は上がる。雲が出て、空は霞むだろう。苦労して出かけても、星を見るには中途半端な空模様になってしまうかもしれない。
迷ってしまうが、決定的なのはガスコンロのカートリッジが無いことだ。会社帰りに買おうと思ったが、遅くなってしまって街まで出れず。近所の上州屋には売っていなかった。
それはそれで、少しほっとしている。
八ヶ岳行くのならば早起きしなくちゃいけないし、やっぱり疲れるし寒いし。火種なしに、雪山は行きたくない。野外へ行けない理由ができたなら、家で写真整理でもしていよう。