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2006/7/14(金)

僕の作った料理は、我ながらおいしい。今日は特にイメージどおりの出来ばえ。遅くまで残業したって関係無いぜ。


深夜の環八を走る。数年前は釣りに行くために使っていたシチュエーションだが、今日は実家へ帰るためだ。

母親が急死した。青天のヘキレキと言って言えないことはないが、鬱病→治りかけの自殺というのは頻出パターンである。死んだ、と告げられれば、やっぱり本当に死んだのだろう。

僕は彼女にとって良い息子だっただろうか。
おおむねは良い息子だったのではないかと思うが、至らない部分はたくさんあっただろう。 特に最近は、実家に帰ると「身なりを清潔にしなさい」「床屋行った?」「恋人できた?」と、僕に無理なことばかり言うことを煙たく思っていた。
ここ一週間は電話も通じず、気を揉んだのではないかと思う。気の毒なことをした。 先週あたりのそっけない電話が最後か。いや、申し分けないというか、成長していない感じのお別れとなってしまった。
最後に会ったのは一月ほど前。日記を見ると6月4日だ。両親と一緒に、近所の公園を散歩して弁当を食べた。やせ細ってしまったが、やがて元気になることは疑っていなかった。
つまらない工作に没頭していないで、もうちょっと顔を見せた方が良かったのだろうが、没頭していたのだから仕方が無い。


母の作った最後の手料理を食う。
この3連休は、僕にしては奇跡的に何の予定も無い。
八丈島あたりにでも行っていたら、何も知らないまま葬式が終わっているところだった。
危なかった。ダメ人間の烙印をおされるところだった。
彼女は僕が今週旅行に行かないということは多分知らない。
日程を選べるのだから、そのへんのことも考慮に入れてほしいところだ。

発病してから約半年間の、父の対応のしかたを聞く。僕と姉にはとりつくろって見せなかった、もっと大変だった状況を聞く。
過ぎたことをとやかく言ってもしかたが無いし、死んだ者を悪く言うのも良くないことだ。でもやっぱり、彼女の行為は非難されるべきだ。あれじゃお父ちゃんがかわいそうだ。
父の対応は、ほぼ理想的にやっていたと思う。そりゃ人間だから至らない点もあるのかもしれないが、彼は誠実に、その場その場での最良の判断で看病していた。見守って付き沿って、はげまして、医者に連れていき、薬を飲ませ、予約し、なだめ、プレッシャーに耐えて。 難点があるとすれば幸運が味方しなかったことと、息子の協力が足りなかったことくらいだ。

話を聞くと、その彼の努力も実り始め、ここ数日は本当に回復してきており、普通に生活できる日も遠くないように見えたそうだ。一昨日泊まっていた姉も同意見で、先週よりもあきらかに良い状態で、まったく普通の感じだったらしい。

希望の光を見せ始めた刹那にすべてを奪いとる。酬いを与えない。彼女の行ないは、意図はどうあれそういう結果だ。 残された我々としては、「人生とはそんなもんだ」「病気なのだからしかたが無い」などと自らを慰めるくらいしかできない。 母親は病気に負けたのだからしかたが無いが、あんなにがんばったお父ちゃんはかわいそうだ。


父親の作った、健康の記録。
薬の量、その日の気分、睡眠時間、運動などを記録させていた。
未来へ向かって、一歩一歩努力していったなごり。

鬱病は治りかけると自殺する元気が出来てしまう、色々なところに書いてあることだ。
鬱病は治る、薬が有効、長期間かかる、本やネットで得た情報は、実際の症状と比べて、だいたいそのとおりだった。 我々にも、治す見込みはあった。そこに向かって進んでいた。が、現実世界では色々なことが起こる。ふとした衝動でこういう結果になってしまうこともある。

これからいくらでも楽しいことがおこるはずだった。
だいぶ病状が回復してきたのだから、また皆でおいしいもの食べに行くことだってできた。昨年の今頃は、母親の誕生日を楽しく祝っていたのに、1年先には何があるか分からない。

僕の運転で、東京湾クルーズにも行っていない。計画はたてたことはあるが、実現できずに終わった。
彼女は向学心旺盛で努力家なのだから、民俗学でも英会話でも自分の好きなことに時間を使って、実りのある老後が似合うと思っていた。
僕が一人旅で行った場所へ、夫婦で訪れることも好んでいたようだ。まだ行っていない場所もだいぶ残っていたと思うのだが。

いずれは姉だって、結婚して子供を産むことになるだろう。(いつになるかは分からないが)
孫でも出来れば、鬱病なんてふきとんでしまうと思っていた。
僕だって結婚して家族を作る可能性はゼロではない。(もっといつになるか分からないが)
そのときに、おばあちゃんは死んでしまったのだよと自分の子供に告げるのは残念だ。

普通に考えて、我が家族に心配ごとなど無いように見える。彼女を含めて、本当に誰に対しても気持ち良く紹介できる、誇らしい家族だと思う。彼女も友人に恵まれ、生徒にも愛され、困ることなんてほとんどないはずだった。
そりゃ細かいところを挙げればきりがないが、母が心配していたことなんてとるに足らないことだ。彼女は我々とともに、もっといろんな楽しみを味わう権利を持っていたはずなのに。

奇麗に片付けられた室内のテーブルの上に残された、姉と僕の幼いころの成績表。たんすの片隅から引っ張り出してきて見ていたのだろう。 僕がぞんざいに扱ったプリントなんかもきれいに保管してあって、やっぱり愛されていたのだろうなと感じる。
何枚か、引っ張り出して読んでみる。やっぱり小さいころから変わらないやと、姉と笑い合う。 何故こういうものを見たあとに、そんな選択をしたのだろう。

鬱病だから、ということなのだろうけど、本当にもったいない。馬鹿げている。

2006/7/15(土)

母親が死ぬというのは初めての経験なので、サテ、具体的には何をすべきなのか勝手が分からない。
我々のような無宗派の、都会の核家族一族には、こういうときの縛りつけがなく、自由ではあるがフォーマットがないというのも何やればよいのやら、となる。

別にやらなければ致命的なことは、そこまで多いわけではないが、やっぱり忙しい。忙しいというのは来客時にあっちこっちひっくり返して飲み物を出すとか、鍵をなくして家中探しまわるとか、その程度のことが多い。 必要な仕事があって、それをこなすために効率的に作業するというよりも、何かやっていた方がいたほうが気は紛れる。

我々は、生きているので飯を食う。
何が起こったって、とにかく食う。それが生きる力を産み出すはずだ。

我が誇るべき強靭な胃袋は、空腹を要求してくる。それに応じ、日々の経験を積んだ我が脳は、お酢ととうばんじゃん入れ、ゴマ油入れて冷やし中華作ろうなどと働き始める。

「全然食欲なかったけど、おいしく食べられちゃったよ」と父から嬉しい言葉をもらった。そりゃ作った甲斐があった。 僕自身は、空腹のわりには味が分からなかった。料理の腕が悪いのか、精神的なものなのか、どっちにしろ軽い不名誉だ。

いろいろ嫌なことがあったけど、おいしいもの買ってきたから皆で食べよう。目新しいニュースはなくても、食卓囲んで近況を報告し合おう。些細な日常的な場面だが、俗に言う失って初めて認識する幸福というものだということを実感する。
母はいつだって僕たちの話を嬉しそうに聞いていたように思う。内容的に喜ばないことはあっただろうが、一緒にごはんを食べて話をすることに幸せを感じていたはずだ。何故そのことを突然捨ててしまったのだろう。

僕が何やっても母は心配したが、喜ばせることだって簡単だった。何やっても喜んだ。食欲なくなったあとだって、僕が作ったものは喜んで食べた。もっと何でもやってあげれば良かった。


式場候補地の下調べ。今年の初詣に、両親と3人で向かった近所のお寺。
半年先に何が起こるかなんて予想はできないな。

姉とは、くだらないことを探し出しては笑って話し合う。大笑いした直後といえど悲痛な沈黙の時間がやってくるが、それはしかたがないだろう。いつもどおり、明るく馬鹿なことを話題にする。
多分彼女も、意識的にそういう態度を選んでいるし、僕もそういうほうが好きだ。笑うことは偉大な作業だ。父にとっても、僕たちがそういうくだらない話で盛りあがっているのは、だいぶ救われるのではないかと思う。姉がいてくれて、本当に良かった。

普段は弱いところなど見せない父も、今日はため息ばかりついている。来客や電話に対し、母の近況を説明し、最後の日の様子を説明し、もっと早く電話をしていればと自分の行動を何度も責めたてる。
姉はそんなこと挙げればきりがないし、意味が無いからやめろというが、僕はそういう懺悔は吐き出しておいたほうが楽なるのかもしれないなとも思う。どっちが良いかは分からない。

父が嘆く姿を見るのはつらい。姉が悲しむ姿を見るのは悲しい。何故母は、こんな場面を産み出すようなことをしてしまったのだろう。

警察へ行って検死を受ける。母の遺体に対面。
僕は遺体に対して冷淡なので、あぁ、確かに母の顔をした遺体があるなと思ったくらいだ。特別な感情は特に感じなかった。

警察の裏に設置された祭壇の、何もかかれていないまっさらな位牌。トランプの予備カードのような。
蝋人形のようになった母の遺体。

それに比べると、外の世界はなんと生命力に満ちているのだろう。けだるい暑気の中、うざったそうにチャリンコこいでいる中学生。ガキンチョ、買い物へ向かう主婦たち。彼らの日常は、生気に満ちている。

僕自身も、若く生命力に満ちている。我ながら、自分の精神的な強さにびっくりする。母親のことは残念ではあるが、この程度の悲劇だったら、僕の心はまだまだ余裕を持って耐えられる。 僕の性格にも、将来への希望にも何の影響を与えることもない。死んでしまったのは僕ではなく母親だ。僕自身には何の問題も無いから大丈夫だ。
僕の安定感抜群の心でもって弱った彼女を助けるべきだったが、最後まで甘えてしまった。

葬儀屋が来て式の相談。色々なオプションを提示されるが、経験も無いし判断力も衰えている。
3〜5の選択肢がある中で、だいたい下から2番目のものを基本に選んでいく。葬儀屋さんにとっては手慣れたものだろう。

都内で50〜100人程度の規模の式を挙げるのにかかる費用は250〜300万。暴利とは言えないが、高いといえば高い。ある意味妥当な値段。 結局は本家の菩提寺でやることになった。母も気にいっていた場所だし、日程がすんなり決まって良かった。

深夜、僕の幼いころに同じマンションに住み、家族ぐるみで仲良くしていた母の友人たち、僕にとっても血のつながりの無い親戚のような方たちが駆けつけてきてくれた。 母が鬱病になってからも彼女たちにはずいぶんと支えられ、頼りに思っていたが、彼女たちにとっても今回のことは衝撃だろう。
お互いが住む場所が移り変わっていっても、20年経っても30年経っても、はげまし合って暖め合ってきた尊い人間関係だ。そんな貴重な人たちをこんなに悲しませている。母は本当に愚かなことをやってしまった。こんなに暖かい人たちに囲まれていたのに、母は苦しみを突破することができなかった。残念だ。

僕は完全に母に甘えていたことになるわけだが、姉も、やっぱり母に甘えていたという。
母は自殺するほど弱かったわけだが、我々に対してはいつだって強く真面目な母親だった。これは美化しているわけではなく、彼女は過剰なほど頑張り屋さんだった。 鬱病になったあとも、我々が帰ってきたときは随分気丈に振舞っていた。我々も、どうせいつかは治るでしょと思って、気楽に接していた。

鬱病になってから発する心配も愚痴も、回数が増えるだけで基本的に昔から言っていたことと同じである。「床屋行け」とか「ズボン買え」とか「結婚しないの?」とか。 今までと同じ種類の小言なので、こちらも煙たく思うだけで今までと同様「うるさいなぁ」という対応しか取れなかった。今までと同じ口調で言われたくないことばかり言われるので、実家への足が遠退いてしまったというのが我々兄弟の弁解であり、反省点である。 僕よりもだいぶ社会性があって大人である姉でさえそうだったのだから、僕なんてもっと寄りつかなかった。

姉は母が死んでしまったことは夢であるかのようで、どうも信じられないという。
僕だってそうだ。でも人の死ってそういうものなのかもしれない。
今までも何度か、知人の死はあった。死を伝えられれば毎回そのようなことを思う。しかし、実は生きていました、ちょっと死んでしまったけど今は回復してまた会えました、などという経験はまだない。いつもすぐには信じられないが、死は死だ。

僕は他人の死を伝えられても即座に悲しくならないが、それは死がどういうものなのか認識できないからなのだろう。死んだと伝えられても、もう会えなくなるとか、一緒の時間を過ごせなくなるとかいうことは、体では理解できない。
今だって、お世話になった親しい人たちをこんなに悲しませて、あとで母をしかってやらなくちゃならんな、などと考えるが、それが実現不可能なことだとは頭でしか理解できない。

母の写真の整理を始めた。
今まで大して気付かなかったが、言われてみれば確かに母は父にベタ惚れだったなぁ。
写真を見ても、母は父のほうに何度か傾いている。(父は照れくさそうな、複雑な表情をしている。父とではなく僕と一緒に写っているときも同じ構図。)

我々姉弟を育てていく満ちたりた表情。

2006/7/16(日)

安田悠と涙とは、かなり遠い存在でありつづけた。
幼稚園にあがる前から、人前で泣いたことなどほとんどない。幼いころはそのことをちょっと誇りにしていた。高校の部活での結構劇的な場面だって、皆が男泣きする中で一人涙線は弱めなかった。
死に対しても結構冷淡で、生き物だったらいつかは死ぬのが当然なのだから、嘆き悲しむには値しないというのが基本的な思想だ。数年前(10年近くになるのか)、僕たち姉弟を大切に大切に可愛がってくれた祖父が死んだときも、大往生であり理想的な人生だったと感じたのみで、涙を流すほどではなかった。 母が死んだって、泣きもしないだろうなと予想していた。

だがまぁ、今は感情と涙の間がかなりホットな関係になっている。ダイレクトに抵抗なくつながっている。ちょっと油断をすると、車の運転中だろうが携帯電話の機種変更の待ち時間だろうが、目頭が熱くなってくる。

これからもっと幸せになる権利があったのに、そのことが見えなくなってしまい、一人でオロオロとうろたえて死んでいった可哀想な母。自分の存在価値が分からなくなっちゃって、一人で思い詰めて苦しくて、どうしたら良いか分からなくなっちゃって愚かな行為をしてしまった哀れな母。 あんなに良い人たちに囲まれていたのに何で頑張れなかったのだろう。もったいない。

最大の誠意と努力と判断と忍耐を続けたのに報われなかった父。胸騒ぎを持って家路を急ぎ、絶望的な場面と対面させられた可哀想な父。

母と我々家族を囲んでくれている、暖かい人たち。彼らの存在そのものの有難さ、それを母が忘れてしまったこと。
そんな発想がよぎるとツボにはまるようだ。

そのたびごとに、スイッチ切り替えようと強い意志を働かせればコントロールは可能だが、こんなにしょっちゅう利かせなければいけないのは初めてだ。あ、いかん。この箇所は電車の中で考えるにはふさわしくないな。

今日の昼間は寮に戻った。母の写真を探し、あまりにちらかった部屋を整理し、電話を買い、その他の雑務を行うというのが目的だ。
それ以外にも、一人でいる時間が欲しかったというのもあったのかもしれない。こういう状況になってしまったので、何の理由が無くても家族で一緒に過ごすということが大変重要に感じられる。しかし、何の理由が無くても一人でいる時間というのも、やっぱり必要だ。

父がカレーを作ってくれた。どうせ食欲でないのだから安物のルーに変え、しかしいざ味見してみるとあまりぱっとしない味で悔しかったという、微妙な葛藤の後に作ってくれたカレー。
いや、カレーらしいカレーで結構おいしかったよ。

今までのように、特に意識しなくても笑い合える、楽しい食卓が戻りつつある。
認めることや納得することは出来ないだろうが、時間の経過は偉大なので、やがて事実を受け入れるようにはなるだろう。

昨日に続き写真の整理。
写真の持っている情報量というか、気持ちに訴える力ってすごいものがある。 カメラを作る仕事に従事できたのは、とても良いことのように思えた。

2006/7/17(月)

今日は、涙ではなく汗を流した。
姉の発案で母の写真集をアルバムにまとめ、式に来てもらう人たちに見てもらおうということになって、1日中スキャン、印刷、編集作業。 自分自身と機器類をほとんど一体化させたかのようにスキャナやプリンタをフル稼動させた。
朝食後から作り始め、姉と二人で徹夜して朝までかかったが、無事に完成。近づく納期と膨大な作業量を前にしての冷静で慌ただしい創作活動だった。

限られた時間と慣れないPC環境では細部に渡ってまでの完成度は求められないが、ここまでできれば十分満足できるレベル。母を知る人がこの写真を見たら、泣いてしまうのではないかと思う。

一人の人生すべてを一冊のアルバムにまとめるという作業だ。肉親のものでなかったとしても、大変に意義深い作業だと思う。

写真の持っている力はすごい。一目瞭然で、そのときの感情が伝わる。特に結婚前後から我々の出産のころの母の、なんと美しく、可愛らしく、幸せそうなことか。 幼いころのおてんばな母も、青春の美しい時代も、近年の枯れたおばさんの母も、しあわせそうに笑っている。随分と色々なところに行っていたのだなぁ。
写真って基本的に楽しい時間に撮るので当たり前なのかもしれないが、このアルバムを見て幸せな人生だなぁと思わない人はいないだろう。

若いころの父は、何か不満なの?というような不良みたいな表情が基本系だった。

姉は、生まれたころから今日に至るまで首尾一貫して同じ顔だ。

僕の幼いころは、虚空を見つめる瞳で大変可愛い顔をしている。可愛い可愛いと周りの人から言われてきたのはあまり好きではなかったが、確かにこれほど可愛いのならばそう言われてしまうのもしかたが無い。 母からも、幼いころはあんなに可愛かったのに、どこで入れ変わったのだか、気付いたら汚いおじさんになっていたと言われた。写真を見たら確かにそのとおり。入れ代わりの時期の写真は、ずさんな整理だったためにほとんど見あたらず、境界を見つけることは出来なかった。

しかし昨年までのこんなに楽しそうに生きていた母が、こういう終わり方を選んでしまうのだから、本当に分からないものだ。
まぁ人間が生きているのはそれ自体が何でだかわからなく、奇跡みたいなものだ。未来には、どんなことだって(ひどいことも、素晴らしいことも)起こり得るという覚悟で生きていかないとだめなのかもしれない。

2006/7/18(火)

徹夜あけで仮眠をとり、お通夜。

●予想を越える大盛況。非常にたくさんの人が来てくれた。一応建前は密葬だが、どこが密葬なんだよという状態。誰にも知らせないというわけにもいかんだろうと何人かに伝えたが、予想していた最大よりもだいぶ多い。来るとは思っていなかった人たちも顔を見せてくれ、大変ありがたく、心強く、頼もしい。 毎回葬式の連絡ってどこからどういう経路で伝わるのか不思議だったが、当事者になった今回もその謎は解けなかった。

●数年ぶり、10年ぶりに会うような懐かしい人たちもたくさん来てくれた。それなのに僕にできることは、神妙に焼香する彼らと一瞬めくばせをすることだけ。あまりにも多くの方に来てもらったので、彼ら一人一人には挨拶すらままならない。 僕としては彼らと話をして笑っていたいのに、せっかくの再会がつまらない。滅多に無い機会なのに、惜しい。 葬式は来なくてもそれ以外のときに会ったほうが有益だ。10年会わない人でもきっかけがあれば連絡がついて再会できるということが実証されたが、きっかけは葬式以外でも良いのではないか。普段から、もっと何の変哲も無いときに会っておいたほうが良い。

●母にとっては、それ以上にもったいない話だ。死んだ直後に国民栄誉賞を与えられるようなケースでは、生きているうちにあげれば良いのにと思うが、そんなかんじだ。 母は、これだけ多くの人に支えられていた。それなのに、そのことを忘れてしまって死んでしまった。 彼女は遺書も残さなかったのではっきりとしたことは分からないが、「私なんて死んでしまったほうが良い」というような思い込みをしてしまったという仮説は有力である。しかしそれが間違いであることが、これほどの規模で示されている。 「誰にも迷惑をかけずにひっそりと死にたい」と思ったかどうかは分からないが、その結果がこれほど多くの人にショックを与えることになった。 しかしこんなにも慕われている人がそれを忘れて自殺してしまうのだ。通常の理性だけで人間の行動を理解することはできない。

●こちらとしては別に四六時中悲しんでいるわけではなく、大方は呑気に暮らしている。それなのに会う人会う人悲しみを表明してくるのは大変だ。 僕は嘆き悲しむのは苦手で、すぐに飽きる。周りの人が皆泣いていると、必然的に僕は冷めてしまう。 しんき臭いのは好きじゃない。好きな人はいないだろうが。

●アルバムは、作っておいて良かった。まぁしかしそんなに泣きながら見るのはやめて欲しい。泣くばかりでなく、笑いながら見る箇所だってある。悲しいのは分かったが、悲しいときに笑うのだって悪くないぞ。

●色々と慰めの言葉をもらってたいへんありがたい。しかし形式どおりの考えかたに無理にはめ込んで納得させるのは違和感がある。 僕は理性でもって考えるタイプなので、整理してみよう。別に現実をねじ曲げなくても、死を受け入れることはできる。

まず大きく、
 ○母の人生はおおむね幸福だった
 ○死んでしまったことには何の意義も無い。非常に愚かな、馬鹿げた、もったいない、迷惑な行為
 ○死んだ理由は、理性では理解できない。何かを思い込んでしまった、魔が刺したとかそういうもの

次に、
 ○母の人生はおおむね幸福だったが、これからも幸福な時間を過ごす権利があった。
  それは容易だったはずだが、そうできなかった
 ○母は愚かで無意味な判断を、弱りきった頭で行った
 ○彼女を支える人間は多かった。僕を含めて我々に彼女を救うチャンスはあったが、めぐりあわせが悪かった
 ○そんなことを言いだすときりが無いから、自分をせめるのは止めたほうがいい
 ○母は安心して死んだのではない。安心してれば良い状態だったのに、そうしなかったから死んだ

でもって、
 ○人生色々だ。運命なんて分からない。さきのことは何だって起こり得る。
 ○人間の行動は不思議だ。死んだ理由は理解できないが、生きている理由だって理解はできていないのから当然かもしれない。
 ○死んでしまったものはしかたがない。

●アラーキーの「センチメンタルな旅・冬の旅」みたいに、撮っておきたいおいしい場面がたくさんあったのに、雰囲気的に写真を撮ることをためらってしまったのは残念。

2006/7/19(水)

告別式。
昨日は来ることのできなかった、我らが偉大なる祖母が来た。母の死以来、祖母のところを訪れる機会が作れずに心配したが、やっぱり強い。そうとうショックを受けているはずだが、常日頃からの超前向きな性格と明るさ。 嘆いている姿も可愛らしい。辛気臭い親族控え室でも、祖母の周囲には華やかさがある。
昨日姉は、うちのおばあちゃんは立花隆と同じくらいの尊さだと言っていたが、立花隆というよりは、マザーテレサとか、ガンジーとか、それくらい徳の高いかんじだ。


母の化粧をする姉

僕の喪服は、今年の初めに母に急かされて買いに行ったものだ。その途中、父から母の病気のことを聞いた。 母は僕が結婚式にでも呼ばれたときに立派なものを着て欲しいという意図だったのだろうが、こういう使い方をするとは。

式自体は、坊さんがお経読んでいる間は、僕の胸のうちは悲しみにくれるというより面倒くせえな、早く終わらないかな、という感じだった。どうもフォーマルな場面には向いていない。
しかし父のスピーチは大変素晴らしかった。人前では泣かないだろと思っていたが、母の遺影を抱えながら涙ぐんでしまった。

副葬品を選ぶのは意外と難しい。何が好きだったか、何を入れれば母らしいかがとっさには出てこない。以下のようなものを選んだ。
ワンピースと帽子:最近良く着ていたもの。僕と最後に公園へ行ったときもこの服装だった気がする。
英語教材:母の気に入っていたもの。毎日暗記していた。そのうちのひとつは、僕が高校のときに使っていたお下がり。表紙に「やすだひろむ」と大書してある。
結婚式の写真:母は好奇心旺盛ではあったが、結局長続きしたものは英語教室であり、好きだったのは我々家族だ。父との結婚式の写真は、2組あったので一緒に埋葬。徹夜で作ったアルバムは、もともとは一緒に燃やすつもりだったが、中止した。
本:手元にあったもので、母が好きだったもの。最近読んでいたのではないかと思う。


花でいっぱいにしてしまえ

今日は、以前住んでいたマンションの近所の人たちが来てくれた。我々家族と一緒に育った家族たちが来てくれた。
昨日も来てくれていたが、今日は納骨にも来てくれて、ゆっくりと話すことができた。ほとんど10年ぶりになるような人たちだが、皆時間の経過など感じさせない。

あぁ、自分の幼いころから成長していく過程を知っている人たちのいることの、何とありがたいことか。
新築のマンションで、一緒に育った何世帯かの家族。どの家も自分の家と変わらず、自由に行き来していた。 小さいころはあんなことやったでしょとか、誰誰さんは昔からそうだったとか、うちの母からこんなアドバイスもらったのに、自分が一番出来てなかったじゃないのとか、皆で笑い合う。懐かしい、楽しい、黄金のような輝いた時代の思い出を、皆で笑い合う。

そうだ。葬式だからってメソメソ泣いていても面白くない。悲しいときにこそ笑っていたい。
愉快で暖かい人と同じ時間を共有できた。今日も世界は相変わらず美しいままだ。

あまり何も考えずに野菜を炒めた。姉はサラダを作った。

母の人となりについて話し合う。
死んだ人のことを悪く言う人はいないが、それを差し引いて考えても確かに母は素晴らしい女性だった。人を悪く言っていたのを、母の口から聞いたことが無い。 生前から、母のことは誉められるばかりだった。

通夜にも非常にたくさんの方に来ていただいたが、母の功績を考えれば当然だ。母は英語教室の経営と講師をしていたが、単に塾の先生をしていたと言うだけでは正しく表現できていない。
教え子の中で長い人となると、小1から始まり、高校を卒業するまで教わり、大学の4年間はアルバイトの講師として教える、なんて人もけっこういる。人格形成期の10年以上、その時点の人生の半分以上を母と関わった人は随分多い。 大して連絡していないのにどこからかその情報を聞きつけ、その人たちが来てくれていた。 教えるだけでなく、クリスマス会、卒業パーティー、そんなものも良くやっていた。そんな母を慕ってきた人たちが、ずいぶんとたくさん来てくれた。

姉にとっては、母の美貌は自慢だったという。確かに僕もよく周囲から、おかあさん美人だねといわれた。僕はそんな身近な人の美醜についてはあまり考えなかったが、おばさんぽくはないなとは思っていた。今回写真を見返して、改めて考え直すと、確かに随分と美しく、可愛らしい人だったのだなと思う。

とっても世話好きで社交的で明るく、真面目ながんばり屋さんだった。彼女は毎日夕方から深夜まで、英語教室行って働いていたが、その間も食事の準備を怠ったことなど一度も無い。 手を抜くことを知らず毎日毎日、何品もおかずを作ってから出かけていた。(そのため、食事はいつもさめていた。基本的に料理はうまかったのだが。)僕が毎日愚直に自炊をするのも、彼女にそのように育てられたからなのかもしれないが、同じように育てられた姉は愚直にやらないので、生来の理由も大きいのだろう。

責任感が強く、本当に努力家だったが、がんばり過ぎてバランスを欠いてしまうことは多かった。
部屋の掃除をしているとき、窓ガラスに汚れを見つけると、もうそこしか見えなくなってしまう。全エネルギーと時間を投入して、窓ガラスを完璧に磨くが、全体的には目が届かなくなりがちというのが彼女の掃除であり、性格だった。 何でも自分でやらなければ気がすまないようで、英語教室の運営も、お茶くみ、便所掃除に始まり、自分の苦手なパソコン作業まで他人に頼むことをせず、一人で抱え込んだ。

愛情にあふれ、心配性で、内実はさみしがりやさんだった。
食事のときなど、僕はもう満腹で食えないのに、それでも何かを食べさせたがった。僕が右を向いても、左を向いても、何かをやっても何もやらなくても心配してきた。何でもかんでも自分がなんとかしてあげなくちゃと世話を焼きたがった。

理想的な妻であり母であり先生であらんと常に努め、事実そのとおりだった。しかし自ら作ったプレッシャーに疲れていることもしばしばだった。もっと肩の力を抜いて欲しかったが、性格的に無理だったようだ。
別にちょっとくらい身なりがだらしなくてシャツ出していても世間は暖かく見守ってくれるのに、彼女は何でもかんでもきちんとしなくちゃ、と思っていた。そういう、普通に考えれば美徳として数えるような諸々のことが、ちょっとずつ彼女を傷つけるような結果になってしまった。

とにかく、彼女は誇るべき、立派な人間だった。我々の母親が彼女であって本当に良かった。今まではそれが当然だったために改めて気付くことはなかったが、このことに疑いの余地はない。

2006/7/20(木)

告別式も終わったところで、日記を更新。
結構リアルタイムで書いていたので、最初のほうと最後のほうで書いている雰囲気が変わっているのではないかと思う。

こういう状態の時に、考えを文章でまとめるというのはかなり有効だと思う。書く前には客観的に考え、整理しようと努めるし、文章にしてしまえば、自分の考えはこういうものだと思い込める。あやふやで曖昧でどんどん変化していく感情も、文章にした時点である程度定まる。
父も、昨日の告別式のスピーチでの原稿を書いた時点で、だいぶ受け入れられるようになってきたように思える。 この日記のメインターゲットは何年後かの自分なので、好きなように勝手に、正直に書いている。ずらずらとまとまりのない、長い文章になってしまっても、将来の僕は苦にせず読むだろう。
サブターゲットとして、何人かのこの日記を読んでくれている人たちがいる。こういう内容を公表するのを快く思わない人いるだろうが、読んでくれる人もいるので気にせずに公表する。

今日も明日も、仕事を休むことにした。僕はチャリンコこいで会社行って、黙々と組み立て作業とデータどりをする日常が好きであり、何が起こったってそのペースを崩したくない。
しかしこういうときには、休むことが可能ならば休んだほうが正しいようだ。やっておいたほうが良いことはたくさんあるし、具体的には何もしなくても、一緒にいたほうが良い人たちはいる。

今日は祖母の家へいった。
成人した子供にとって、親の死は当然やってくるものだ。しかし祖母にとっては、頼りにしていた娘の死ということになる。たぶんその方がよっぽど辛いし、具体的に困るだろう。

しかし彼女は、やっぱり明るく強い。母よりもよっぽど元気で若いと前々から思っていたが、やっぱりそうだ。(何しろ、自分も90歳なのに、コーラス仲間と老人ホームへ慰問しにいってしまうのだから。)
我々の顔を見るといつものように、楽しく明るく朗らかに笑っていた。笑っていろんな話をしてくれた。

一緒に暮らす祖父の妹は、普段から沈みがちだが、芯は強く気はしっかりしている。 食欲の少ない彼女が、初物である、もらいもののマンゴーをパクパクと食べていたのは意外な場面だった。

父も姉も、少なくても表面上はだいぶ元気になった。
ご飯もおいしく食べられているし、眠れている。母がいるときは、必ず母が食事を作っていたが、現在は僕が作ることが多い。僕が作っていると、姉が横でもう一、二品作る。作るの面倒に思っていると、いつのまにか父が作っている。
今日の夕食は、主に姉が作った。彼女は僕と違って洒落たお惣菜をたくさん買ってくる。皆で大変おいしくいただいた。

世の中に、鬱病の人はたくさんいる。自殺者の数なんて、交通事故死の人よりもだいぶ多い。
統計上の数字から判断するに、身近にもそういう人いるのだろうなとは思っていたが、具体的には知らなかった。しかしごく身近にそういうことが起こると、実はうちも、僕の友達も、親戚もと、そういう話がたくさん入ってくる。宣伝するような話はないのだから、知らないだけで周りにも結構あるのだろう。

しかしそれにしても、そういうことがちょっと多すぎる。自殺してしまう人も精神的に弱ってしまう人も、なくすことはできないだろう。だがそういう人たちがちょっと多すぎる世の中になってしまっているのではないだろうか。少し元気があるのは老人ばかりだ。
若者よ、もっと頑張ろうぜ。もうちょっと世の中を明るくしていこう。

2006/7/21(金)

姉がチンジャオロース食べたいといったので、ちょっと気合を入れて作った。 一番うまくいったのは鱈の蒸し物。たらとほたてを細かく刻んで、酢と醤油で下味。片栗粉と混ぜ、油あげの中に包んで蒸した。中華風点心を目指したが、できたのは京風の上品な味。ゴマ油いれなかったからな。

おいしいもの食べて、良く眠って、体を動かしておけば、何があったって大丈夫だと思う。
父もおいしいといって良く食べている。僕の料理は確かに結構おいしいのだから、母にももっと食べさせれば良かった。何度かは作ったことがあるので、多少は救われるが。

僕に出来ることは多分もっとあったし、僕に彼女を救うチャンスはたくさんあった。
僕は彼女の愛を当然のように受けとめ、甘えつづけるだけだった。しかしそのような態度は、それほど間違っていないと思っている。子供は、親の愛情を傲慢に受け取るだけで良い。そのお返しは、親にではなく次の世代にしておけば矛盾はない。竹内久美子あたりだってそう言うだろう。 悲しんでいるだけでは何も産まれない。僕はこれからも楽しく、自分の好きなことをやっていくつもりだ。

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